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100日の恋  作者: すみっこのラスカル
出会い
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 涼子が明日プレゼン予定の企画書のチェックを終え、会社を出たのは午後10時を過ぎていた。自宅には地下鉄で3つ目の駅を降りて、徒歩5分ぐらいで到着する。仕事柄どうしても夜遅くなるので、できるだけ会社近辺で住むのが肉体的にも精神的にも楽である。元々涼子は父親が購入した私鉄の急行電車で1時間余りかかる大手不動産が開発分譲した閑静な戸建住宅に両親と兄の4人で住んでいたが、夜遊び好きで、以前からの浪費癖も高じた兄の借金返済のために、涼子のわずかな蓄えまでに手が伸びそうになり、両親に悪いと思いながらも3年前に家を飛び出し、このマンションに引っ越してきた。蒸し暑い地下通路から上がると、何となく今日1日の鬱積されたストレスみたいなものが一気に体中から飛び出るような気持ちになるのは私だけなのかなと考えながら、2つ目の辻を左折し、涼子が住んでいるマンションが見えるところまで来ると、玄関前に見慣れた紺色のヤリスSUVが停まっていた。

「しようがないなあ。裕樹のやつ」

涼子は思わず声に出してそう言ったが、顔に微笑みを浮かべているのが自分でも判った。

祐樹が新入社員の年に催された会社のリクリエーションで、バスの席がたまたま涼子と隣同士になってから社内でも時折話すようになり、祐樹は社会に出たばかりの初々しさで、当時アイデアばかりかデザインにも少々行き詰まりを感じていた涼子にとって発想転換させるような好印象を与えていた。その後も涼子の方から食事に誘い、仕事の内容を理解していないからこそ出てくる逆転の発想のような祐樹の考え方をアイデア捻出のきっかけにしていた。グッドアイデアはグッドデザインに繋がるもので、その頃に涼子が提案したプレゼンテーションは90%近い成約率をあげ、社内でも絶賛されたことは言うまでもない。しかし時が過ぎ、裕樹自身が企画会社としての業務内容を理解していくにつれて、当初彼のなかにあった誰も思いつかないような思考パターンは影を潜め、涼子にとっても仕事上のメリットは薄らいできていたが、既にその時は裕樹の何となく頼りなさそうで、ひょうひょうとしたイメージが涼子の母性みたいなものをくすぐったのか、今まで付き合ってきた男性とはどこか違う感情が涼子の心の中に形成されてしまっていた。

「今日は早く帰ったんじゃないの?」

涼子はそのSUVの横で立ち止まると、窓を開けたままボーッとしていた裕樹を睨んだ。裕樹は涼子に気が付いていなかったのか、少し驚いたようだった。

「あっ、お、おかえり」

「おかえりじゃないでしょ。何してんのよ。ここで?」

「何してんのって、そんな言い方ないよなあ。涼子のこと待ってたんじゃないか」

「あっそう。それはありがとね。じゃあ、おやすみっ」

涼子がマンションのエントランスに入って行こうすると、裕樹はあわててエンジンを切って、エントランスのオートロックドアが閉まりかける寸前のところで滑り込んできた。

「なんでいつもそんな突っぱねるような冷たい言い方するんだよ」

「部屋来るんだったらちゃんとパーキングに停めてきてよね。駐禁で捕まっても知らないわよ」

涼子がエレベータに乗って5階のボタンを押すと、裕樹は何かぶつぶつ言いながらエントランスから出ていった。このマンションのエントランスはもちろん、各戸の部屋もセンサー付きのオートロックで、キーを持っていればドアの前に立つだけでドアロックは解除される。

部屋に入ってすぐにリビングのエアコンを作動させると、吹き出す冷気に向かって「ふーっ」とひと息ついてから、浴室の前で着替え始めた。しばらくするとインターホンが鳴って裕樹を迎え入れる。

「裕樹、どうせ食事してないんでしょ?ちょっと待ってて何か作るから」

祐樹は手慣れた様子で冷蔵庫から缶ビールを出してソファに座ろうとしている。

「うん、いや、隣の桃太朗で林田さんと一杯飲んできたから腹は減ってないよ」

『桃太朗』というのは隣のビルの1階にある居酒屋のことだ。

「林田って、営業2課のあの林田君?」

涼子は部屋着のスウェットに着替えながら尋ねた。祐樹は涼子の着替える姿を見るでもなく目を背けるでもなく、缶ビールを少し飲んで小さく頷いた。

「ふーん。彼と飲んだ話なんてあんまり聞いたことがないように思うんだけど、何か特別な話?っていうか、それよりお酒飲んで運転してきたの?」

リビングに戻ってきた涼子は裕樹の横に座ると、裕樹の飲み掛けグラスにビールを注ぎ足して一気に飲み干した。

「それ、ダメだよ。今度やったら入れてやんないからね」

涼子は眉根を寄せて睨みながら空になったグラスを裕樹に向けた。

「それで、林田君、何だったの?」

涼子は気を取り直したようにして尋ねた。

「林田さん、涼子のこと、気に入ってるみたいだよ。そんで、涼子が俺の制作担当チームで、よく話しするだろうから、ちょっと繋いでみて、みたいなこと言ってた」

飲酒運転を叱責されて下を向いたまま応えた。

「何なのそれ。林田君って見た目しっかり感があるのに意外と情けないんだね。そんなことぐらい自分で言えばいいじゃない」

グラスに2杯目のビールを注いでいる。

「それに、よりによって裕樹なんかに相談するなんてサイテーだね。私、情けない男は1人で十分なんだから」

「なんだよっ、それって俺のことか?」

「他に誰がいるのよ」

涼子は注いだビールをまた一気に飲み干すと、とぼけたような仕草で祐樹の顔を見た。

「涼子、好きだぁ」

祐樹はそう言いながら涼子を抱きしめた。

「そうそう、裕樹はそうしてるのが可愛いんだよ」

そのままソファに押し倒されて仰向けになりながら祐樹の背中に手を回すと、赤ん坊をあやすように掌でポンポンと2度叩いた。

「祐樹、だめだめ、お風呂に入ってから」

涼子は母親が子供に言い聞かせるような口調になっている。


涼子がシャワーを浴びてバスルームから出てくると、先に風呂に入った裕樹は涼子のTシャツを着て、テレビでスポーツニュースを観ていた。

「ジャイアンツまた負けちゃった」

「そうなんだ、タイガースは勝ったの?」

「勝ってるよ。今年は優勝するかな?」

「でも、タイガースって肝心なところで連敗したりするでしょ…」

夏のロードを五分で乗り切ろうとしているが、涼子にはさほど興味もない阪神タイガースの話をしながら、ドレッサーの前に座り、髪をブローし始めた。ざっとヘアスタイルを整え終わると何も言わずに寝室へ行き、ベッドカバーを丁寧に折り畳んでサイドテーブルの上に置くと、かけ布団代わりのタオルケットの上に寝転がった。最近涼子は裕樹とベッドを共にする前、よく考えることがある。今夜もそうだった。ある程度仕事も軌道に乗り、収入自体も同世代の男性に引けを取らなくなった。以前はしっかりと自分を引っ張ってくれる男性が好きだったし、そういう相手と付き合いもした。もともと自分の仕事のために付き合い始めたとはいえ、そのメリットが見出せなくなった今でも、その何となく頼りない年下の裕樹と一緒にいる。そのこと自体の不思議さと自分自身が変化してしまった可笑しさが心のなかで妙に調和しているのだった。普段は裕樹に対して冷たい口調や態度で応じながら、時にはその何倍もの優しさを与えたくなる。やはり自分は祐樹のことが好きなんだろう。ひょっとすると結婚してもいいと思っているのか、いや結婚したいと考えているのか。涼子自身、自分を十分に満足させてくれるわけでもない裕樹とあえてセックスする必要もなかったが、そういった優しさからくる愛しさみたいなものなのか、抱かれているというより逆に彼を抱いているような、いわば、男性的なセックス感で自分の感情を昂らせて、肉体的充実感を味わっているのかもしれない。涼子は溜め息とともに、ずっと以前に止めたタバコの煙を思い出すかのように、天井に向けて大きく息を吐き出した。

裕樹はテレビのスイッチを切って寝室に入ってくると、ベッドの端に腰掛けた。

「どうかしたの?ボーッとして」

涼子の片方の胸を掌で包み込むようにして触れてきた。


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