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そのとき、3人のテーブルに向かって1人の女性がやってきた。セミロングのウェーブヘアーでタイトスカートがよく似合うスレンダーでスタイリッシュな女性だ。
「あら、ここにいたんだ」
「綾子!ど、どうしたんだ?」
高木はほんとうに驚いた表情だった。
「どうした?って、敬介さんがあんなメールくれるから」
「体調悪いから精密検査受けるって連絡しただけだろ」
「だから、どうしたんだろって思って様子を見に来たのよ」
「ふーん」
高木は不快そうに顔をしかめる。
「あら、深田さん?でしたわね?たいへんご無沙汰しております。いつぞやはお世話になりました」
綾子は深田に軽く頭を下げた。
「いやあ、こちらこそ。お久しぶりです」
深田慎一郎は立ち上がって頭を掻きながら笑顔を見せた。
「こちら様は?」
高木綾子は挑むような目で涼子を見た。
「ああ、お得意様だよ」
高木は「妻です」と綾子を手のひらで指し示したあと、涼子が大事な取引先のチーフディレクターで、業務責任者でもあることを綾子に伝えた。
「それは、それは。たいへん失礼しました。いつも主人がお世話になっております」
綾子はうっすら微笑みながら、また軽く頭を下げて形だけの挨拶をした。
「こちらこそ、高木さんには日頃よりたいへんお世話になっております」
涼子は立ち上がって笑顔で応えた。
「綾子、今仕事の話をしてるんだ。ちょっと外してくれないか。終わったら呼ぶから病室ででも待っててくれ」
高木は居心地悪そうな表情を見せた。
「あらそうなの。わかったわ。それじゃ1階のロビーで待ってるわ。皆様失礼します」
涼子はそれ以上何も言わずに踵を返した。
「すみません。まさか病院にまで来るとは思わなかったもので…。場所とか知らせてなかったんですよ。会社で聞いたんでしょうね」
高木はほんとうに申し訳なそうに肩を落としている。
「ま、いいじゃないか。綾子さんも元気そうだったし」
深田は高木と何かを示唆するように目を合わせて笑顔でその肩をたたいた。
「で、何の話だったっけ?いま3人で話してたというお仕事の話は?」
深田は笑いながら皮肉っぽく尋ねた。
「ああ、それ?もういいよ。また今度にする」
高木は照れたような顔つきをして涼子を見た。
「なんだよ、それ。また今度って敬介には時間が残ってないんだろ?」
「ま、そうなんだけど…。綾子の顔を見たら話す気そがれちゃったよ」
「ハッキリしろよ。敬介らしくもないな。俺がいて言いづらいんだったら、俺も下へ降りて、綾子さんのご機嫌でも取っとくから」
深田は談話室から出ていこうとした。
「わかった、わかったよ。お前と綾子が2人で何の話するんだよ。それもおかしいだろ」
2人の言い合いに涼子が口を挟んだ。
「なんだかよくわかんないけど、それより検査結果は間違いないんですか?」
「ええ、うん、ま。そうです」
「手術とかは?」
涼子が一般的に思いつくことをいろいろ訊いてみたが、胆道から膵臓の周りに癌細胞が広がっていて、既に手術できる状態ではなく、余命はおそらく3~4カ月とのことだった。病状と検査結果を淡々と話す高木を見つめている涼子の目に涙が浮かんでいた。
「大丈夫ですよ。これからも精一杯生きていきますから」
高木は優しく微笑んでから唐突に告げた。
「僕ね、山野さんのこと、好きだったんですよ。初めて会った時から…」
「えっ…」
涼子は俯き加減だった顔を上げて驚いた表情を見せた。
「いま、なんて言ったの?」
「だから、あなたのことが好きなんです」
高木は涙で潤んだ涼子の目を見てその気持ちを伝えた。
「ひとめぼれって言うんですか。なんて言うか、そんな感じなんです。いい歳して…。しかも既婚者で…」
高木は照れながら続ける。
「山野さんは仕事ができて、人望もあって、しかも美人で、僕みたいなのが口説くことできないなって思ってたんですね。でも病気がわかって、この期に及んで卑怯かもしれませんけど、やはり気持ち伝えないとって…」
横にいる深田は黙って2人の様子を見ている。
涼子も高木からの信じられない告知と告白に対処できるはずもなく、茫然とするほかなかった。
深田は帰りの車のなかで、高木と綾子はだいぶ前から別居中だということを教えてくれた。2人は結婚してから5年近くになるが、実質的な結婚生活はおそらく1年たらずで、その後はずっと不仲が続いているらしい。綾子の父親は以前高木が勤めていた包装資材会社の専務で、社長である実兄が子供に恵まれていないため、専務の一人娘である綾子の伴侶を跡継ぎに考えていたようだが、高木は次期社長のポストが約束されたような社内ポジションに嫌気が差したようで、義父である専務はもちろん、綾子にも相談することなく、突然転職してしまい、それが2人の不仲に輪をかけて別居することを決定的にしてしまったとのことだった。それにもかかわらず離婚しないのは綾子のプライドが許さないのかもしれない。
深田は店で簡単な食事ぐらいなら出せると誘ってくれたが、今日は驚愕の出来事がいろいろ起きたので、帰ってゆっくり考えてみたいと辞退した。
涼子は部屋に入るとすぐに着ているものすべて放り投げてバスルームへとび込みシャワーを浴びている。頭のなかが混乱していた。これからすべきことが何にも思いつかない。シャワーの水音が耳鳴りのように聞こえてくる。バスタブにお湯を溜めようとシャワーヘッドを胸に押し充てたまま座り込んだ。ゆっくりとバスタブにお湯が満たされていき、その様子をじっと見つめていた。
ほんとうにショックだった。今日聞かされた2つともが。好きなら好きで最初からそう言ってくれればいいのに。あたしもあなたに好意を持っていたのよ。でもあなたは既婚者じゃない。不倫なんて柄じゃないし。あたしのことが好きなんだけど僕は余命3~4カ月ってなに?あの人が奥様って?本当に偶然会わせたの?それっていったい何なの?あなたはあたしにどうしろって言うの?ほんと卑怯だね。わけわかんない。
バスタブにゆっくり浸かったせいで、身体はすっかり温まったけど、心のなかはそうではなかった。頭のなかも真っ白のままだ。
ヘアドライヤーで髪を乾かそうとドレッサーに座って、いつものようにオーディオのスイッチを入れるとすぐにテイラー・スウィフトの〈クルーエル・サマー〉が始まった。何日か前に麻生友理奈から「クロスオーバーとかAORみたいな年より臭い音楽ばかり聞いてないで、たまにはこんなのも聞いたらどうですか」と言われて、借りているCDを挿入したままだったことを思い出した。「悪魔がダイスを振り、天使が目を泳がせる」みたいな箇所があって、涼子の語学力では深い意味まで分からないが、単語自体は簡単なものが使われているので、直訳からでも何となく2人きりの秘密の場所での逢瀬みたいなニュアンスで〈クルーエル・サマー〉残酷な夏の様子が伝わってくる。友理奈は英語が堪能だからこの曲の意味合いを知った上で、涼子と高木の間に何かを感じとっていたのだろうか。今までに楽曲やアーティストの推しみたいなことを涼子に伝えてきたことなどなかったのに…。いや、涼子自身が高木を意識し過ぎているせいでそう勘ぐってしまうのかもしれない。ヘアドライヤーのスイッチも入れずにじっと考え込んでしまった鏡の中の涼子の顔には化粧を落とした風呂上がりにしては釈然としない浮かなさが残っていた。




