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涼子はバスタブにしっかりお湯を張って半身浴を続けながら高木の言葉を繰り返し思い浮かべていた。高木は裕樹のわがままを自分がカバーすることで、裕樹に対する愛を確認しているというのである。
考えてみれば、母親が子供に持つ感情と同じではないか。それはまさに母性本能と言わざるを得ない。涼子が裕樹に対して持っていた感情は大半がこれと同様だったとも考えられる。だからこそ裕樹に対してさほど強い結婚願望が湧かなかったのかも知れない。高木が言うように裕樹のことが嫌いではないし、逆に愛おしく思えることさえある。それは自分が男になって、女の身体を優しく愛撫するような感覚に似ている。涼子はそれが母性とは決して思えなかった。
今夜の高木は食前酒のワインを一口飲んだだけで、どこにも誘わずそのまま車で涼子の自宅マンションまで送ってくれた。
「まあ、僕の言ったことは、当たらずとも遠からずだと思いますから、今夜ゆっくり考えてみてください」
高木は別れ際にエントランス前でそう言ってちょっと寂しそうな顔をした。高木が話したことは、それなりに納得できるものであったにもかかわらず、何となくしっくりこないというか、それほど快い気持ちにもならず、もちろん涼子が望んでいた答えと正反対であった期待はずれ感もあるのだが、ただ単にそういった単純なものではない何か他の要因のせいで、涼子は正直なところ面白くなかった。
ちょっと長めの風呂に入っていたため、リビングルームのなかはエアコンのおかげで風呂上りに心地よい温度になっていた。食事時のワインだけでは、アルコールが少々物足りなく感じていたので、冷蔵庫からビールを取り出して、グラスには注がず缶のまま一気に飲んだ。
ふーっとひと息ついてテレビでも見ようかとリモコンに手をかけた時、スマホに着信音が響いて、裕樹の名が表示されていた。
「あ、涼子?俺」
スワイプするといつもの調子で裕樹の声。
「こんばんは」
何もなかったようにいつもの涼子。
「どこか出かけてた?」
「うん、ちょっと食事に出てた」
「LINE送ったけど既読にならなかったから」
「そうなの?ごめん、見てなかった」
涼子は惚けたが、LINEの着信には気付いていた。
涼子は今日の仕事が少々ハードだった疲労に加えて、高木の期待はずれのアドバイスに腹立たしさも覚えていたので、その不快感も手伝って返事をするのも億劫になっていた。
「どうしたの?何か元気ないな。疲れてるみたいだな」
「うん、ちょっとね…。それで?何の用?」
涼子は早く電話を切って、ひとりになりたかった」
「別に用はないんだけど、ちょっと声が聞きたくなったっていうか…」
「それだったら、また今度にして。あたしの声なんかいつだって聞けるんだから」
涼子はいつもに増して冷たい言い方で、今夜は疲れているから早く眠りたいと一方的に電話を切った。缶に残ったビールを一息で飲み干して、また大きくため息をつく。オーディオのスイッチをいれて、CDモードにすると、2~3日前からセットされたままのマンハッタン・トランスファーのアカペラナンバーが始まった。
「だって、そんな気にはならないよ」
涼子は独り言を言いながら、ソファに座り直した。
裕樹との今の付き合いかたは、突然のプロポーズに対処できるようなものではなかったし、また涼子自身期待もしていなかった。もうしばらく今の仕事を続けて30歳になれば、その時たまたま交際している男性にある程度の感情があったら結婚してもいいかな?ぐらいの楽観的な考えであった。
それにしても高木は期待はずれであった。まだあの時に覚えた腹立たしさが頭の中に募っていて何となくモヤモヤしている。涼子もあまり若くない。人生のなかで、女にとっての一般的な第一目標を結婚とするのであれば、そろそろ考えなければならない年齢に差し掛かっている。そう思えば高木のアドバイスは一般論である。これからその前提を振りかざして、目標の実現に向けて行動していけばいいだけのことである。涼子はふと自分が当てにしていたであろう高木の回答を思い浮かべてみる。
「そんな状態で付き合っていても結婚はできないですよ。早いうちに別れて他の男性を探さないと手遅れになりますよ。次は僕なんかどうですか?」
常に包み込むような優しさを持っていてくれるのが男の愛情で、それに応える優しさが女の愛情であり、与えるだけの愛情や与えられるだけの愛情は決して継続できないはずだと、以前打ち合わせ後の雑談の中で、高木が志水佳織に冗談っぽく話していたのをいま思い出した。もしそうだとすれば、裕樹へのそれは継続できるものではないのである。
「まっいいか」
涼子は誰かに同意を求めるように、大きな声を出して、そのまま万歳するようにソファに寝転がった。オーディオから流れる《タキシード・ジャンクション》の軽やかなリズムが涼子の頭の中でさらにアップテンポになってダンスミュージックのように弾んだ。




