21
7時を少し過ぎてから涼子がビルのエントランスを出て周りを見回すと、地下鉄の駅とは反対側の方角に50メートルほど離れた場所で、見覚えのあるパールホワイトのカムリが停まっているのが見えた。
「すいません。ちょっと遅くなりました」
小走りで駆け寄ってきた涼子が助手席のウインドガラスをノックしようとした時、後ろから聞きなれた元気のない声が聞えた。
「さっ、早く乗ってください」
高木は助手席のドアを開けて涼子を乗せると、自身も急いで運転席側へまわって乗り込んだ。
「ここら辺りでボーッと立ってたりしたら、誰に会うかわかんないですから」
高木は誰に言うでもなく独り言のように言ってクルマをスタートさせると、またいつもの笑顔に戻った。
「すみません。無理言ったようですね」
涼子は高木のその言葉に少し恐縮した様子を見せたが、それを遮るように続けた。
「今夜はちょっとイメージ変えて、ホテルのレストランにでも行きましょう。山野さんも何か悩み事があるみたいだから、あそこだったら静かだし、ゆっくり話ができるでしょう」
涼子がその言葉にちょっと驚いた表情をしたことが、運転している高木にも分かったらしくさらに続けた。
「だって、さっきミーティングルームで何か相談があるっておっしゃったじゃないですか」
「ええ、まあ、そうなんですけど。高木さん、あたしの言ったこと、聞いてないみたいだったから」
「そんなことないですよ。山野さんのおっしゃることは一字一句頭の中に叩き込んでいますから」
「相変わらず調子いいわね」
「そうですか、僕はこれでちょうどいいと思ってますよ」
「まあ、それが高木さんのいいところかもしれないわね」
「そうそう、そう思っててください。今夜は山野さんからのお誘いで、僕ね、ほんと嬉しいんですから。山野さんは僕にとって憧れの君ですからね」
高木はニコニコしながら前を向いて運転している。
「ほんと、そんな歯の浮いたようなことが次から次へと言えるもんだね」
本町中央通りを右折し、北上したカムリは涼子も何度か行ったことのあるシティホテルの地下駐車場に滑り込んだ。
「僕ね、ここの飲食関係の店、好きなんですよ」
「高木さんはよく来るの?」
涼子は自身の話しぶりから敬語が抜け始めているのを気付いていた。
「ええ、まあ、食事より1階にあるメインバーにはよく来ます。ほら、例のあいつ、深田ね。ミッドナイトの慎。あいつが最初に連れて来てくれて、市内のバーではここが一番いいとかで…」
このホテルの4階には和洋中それぞれのレストランとステーキハウス、それにウエイティング用の小さなバーもある。
「今夜は洋食でいきましょう。よろしいでしょうか?」
高木は4階でエレベータから先に降りた涼子が振り向いて頷くのを確認すると、フロアの奥にある欧風料理レストランの入り口で2人であることをマネージャーらしき男性に伝えた。
そこはこのホテルのメインレストランではなく、面倒なマナーや大層なドレスコードもなく気を張らずに食事ができ、1階のコーヒーショップよりはまともな料理を出しているので、週明けのウイークデーにもかかわらず、テーブルはほぼ埋まっていた。
高木は涼子がメインディッシュに選んだオマール海老のテルミドールと高木が選んだタンシチューにそれぞれ適当な前菜と、今日はジャガイモの冷製ポタージュだというトゥデイズスープを加えて手際よくオーダーを終えると、涼子に向かって改まったような顔つきになってすぐに微笑んだ。
「危ないとこでしたね。こんな中途半端な日でもわりと食事に来てるんですねえ…」
高木はテーブルがほぼ埋まっているのが予想外のようだった。
「それで…。いきなりですけどご相談とは?何でしょうか?」
「ええ…。こんなこと高木さんに言うことでもないんだけど」
涼子は少しうつむき加減になった。
「まあいいじゃないですか。お金のこと以外だったら何でも相談に乗りますよ。とくに男関係とかだったら喜んで!あっと、これは失礼。また叱られちゃいますね」
高木は以前涼子に男性関係の話で叱責を受けたことを思い出したのか、それをごまかすようにちょっと大きな笑い声を上げたが、涼子は高木のその冗談っぽい言い方で、逆に話し出すきっかけを持つことができた。
「男関係…。でもそんな大層なことじゃないの」
仕事の打ち合わせをしている涼子とは全く違ったあやふやな受け答えになっている。
「えっ?誰の…。山野さんの?ですか?」
高木はほんとうに驚いたようで、眉根を寄せて涼子を見つめた。
「ふーん。そうなんですか。ええ、いいですよ。僕で役に立つのでしたら何でもどうぞ」
高木はすぐに気を取り直していつもの笑顔に戻っていた。
高木がオーダーしたテーブルワインの赤、白それぞれでグラスを合わせた後、涼子はその白ワインを一口飲んでからゆっくり話し始めた。伏し目がちに真っ白なテーブルクロスの一点を見つめながら、およそ1年あまりの裕樹との経緯とそれに対して涼子が考えてきたことをできる限り正直に話したが、その相手が大橋裕樹であることを告白する勇気まではなかった。その間、じっと黙って話を聴いていた高木が一段落したところで口を開いた。
「その人はいい目をしてきましたね」
「いい目をしてるって、別にそんなつもりはなかったんだけど…」
涼子もスープをスプーンで掬って口にしてから応えた。
高木はオードブルの皿に残ったバルサミコのジュレを口に運んで涼子を見つめた。
「いや、結果的にそうでしょ」
「まあね…。でもそれに不満があった訳でもなかったし…」
「まあいいじゃないですか。終わったことだし。昔のことをいくら言っても仕方ないんですから」
「そうなんだよね。いま、やるべきことは、今更結婚しようなんて言う男に別れを告げるってことだよね」
ずっとうつむき加減だった涼子は初めてしっかりと高木の目を見た。
「山野さん、ほんとうにその人と結婚したくないんですか?」
高木は見つめ返した。
「ええ、そう、したくないわ」
「僕はそうは思えないなあ」
高木の意外な言葉であった。裕樹と別れることに同意し、涼子自身の気持ちが信任されるものだと考えていた。
「えっ?どうして?なんでそう思うの?」
涼子は咎めるような目で見た。
「なんでって、山野さん、その人のこと好きなんですよ」
「どうして?そんなわけないでしょ。あんなやつっ!好きなわけないわよ」
涼子の声が少し大きくなりかけた時、ウェイターがメインディッシュを運んできた。ひとしきりソースと料理法を説明して「ごゆっくりお楽しみください」とひと言添えてテーブルから離れていく。涼子はそれを待ってたかのように、声を元のトーンに戻して尋ねた。
「だからね、高木さんはどうしてそう思うのって聞いてるの」
高木は涼子の少し潤んだような目を見つめた。
「おそらくその人の勝手なところを山野さんがカバーすることで、山野さん自身がその人に対する愛情を確かめているんだと思うんですが…。たぶん山野さんはその人のこと、好きなはずですよ。そんな気がします」
涼子は高木のその言葉で、たったいま高木に告白した裕樹との1年あまりがもう1度頭の中で撹拌されて、それが順序よく並べ替えられてから蘇ってくるような気がした。確かに裕樹を甘やかすことが嬉しく思えたし、逆に叱ったり無視することで愛しさを覚えることも少なくなかった。しかし高木が言うように、それが愛情なのであれば、なぜ裕樹のプロポーズに対して素直になれないのであろうか。確かに涼子も裕樹のことが嫌いでないのはよく理解しているし、それが愛情なのかと考えたこともあった。
「でもね、山野さんはまだ結婚したくないんですよ。山野さん自身がです。その人がどうのこうのとかじゃなくてね」
高木は涼子の考えていたことを見透かしたような優しい目で涼子を見つめながら更に続ける。
「だから山野さん。せっかくその人がそう言ってくれているんだから、今すぐじゃなくてもいいじゃないですか。ゆっくり前向きに考えてから結論出せば」
涼子は予想に反した高木の言葉が妙に無責任な響きで聞こえた。
「それじゃ、高木さんはあたしに彼と結婚しろって言うの?」
「そりゃそうですよ。山野さんもその人のことが好きで、その人もそれを望んでいるんだから、それは必然でしょ?」
「でもあたし、嫌なんです…」
「だから、今だから嫌なんであって、これから結婚を前提にして付き合っていったら、嫌じゃなくなるかもしれないでしょ」
「そりゃそうだけど…」
涼子は形のいい唇に左手の人差し指を押し当てて、人に静かにするようにと伝えるような仕草で、その唇を少し突き出してみせた。
「そんな不満そうな顔しなくてもいいじゃないですか」
高木はクルミ入りのバケットを半分ちぎって残ったタンシチューのデミグラスソースを付けて口に入れた。
「だって高木さん、あたしの期待を完全に裏切るんだから…」
「裏切るって、どんな期待していたんですか?」
「高木さんのことだから、そんな勝手な男なんか早く別れたほうがいいとかなんとか言ってくれると思ってた」
涼子も海老のテルミドールをほぼ食べ終えようとしている。
「ま、確かに勝手な人かも知れませんけど、山野さんもその人のこと嫌いじゃないと思いますし、その人だってそう言ってるんだから、おそらくこれからは、ちゃんとしてくれると思いますけどね」
メインディッシュを終えた高木はナイフとフォークを丁寧に揃えた。
「まあいいです。高木教授のご高察を鑑み、じっくり考えさせていただきますっ」
涼子はちょっとおどけたような口調でにっこり笑うと、持っていたフィッシュナイフとフォークを高木と同じように揃えておいた。




