19
夕食も一緒にしようという裕樹に、今夜は1人でゆっくり考えたいと断った。実際これ以上の時間を共にするほど余裕のある精神状態ではなかったし、ましてやおそらく涼子の身体を求めてくるであろう裕樹に抱かれる気になど到底なれなかった。裕樹は少し残念そうな顔をしたが、思い直したように笑顔を浮かべて承諾し、マンションまで送ってくれた。
オートロックのピーという解除音を聞いて部屋に入ると、涼子の心の鬱積が詰まっていたかのように熱く澱んだ空気が身体全体を包み込む。エアコンのスイッチをいれると、一瞬間をおいてから生暖かい空気を吐き出し、すぐに心地よい冷風が涼子の顔めがけて吹き付ける。涼子はしばらくその吹き出し口の前に立ったまま、衣服と一緒に身体に付けている澱んだ空気の鎖のようなものを取り除いて下着だけになった。バスルームでシャワーを浴びてリビングに戻ったときには、この部屋に朝から鬱積していた空気はすでに一掃されていたが、実際の心の重苦しさは相変わらず居座っている。裕樹の心境にどのような変化があったのか、前より冷たくなり、避けていると言われたが、涼子自身にはそのような意識は全くなかった。確かに何度か無視したような結果になってはいたが、別段嫌いになったわけでもないし、ただ成り行き上のことだと考えていた。
冷蔵庫からカマンベールチーズを取り出して、その平たい円柱状のものを六等分できるよう上から単純に三回切って小皿に載せる。ソファに腰掛けて缶ビールをグラスに注ぎながらそれをひとつ口へ運んだ。だいたい自分が裕樹の女だと思ったことなどないし、結婚を前提にした付き合いかたもしていない。お互いに好意を持ち始めた時点でそれなりの意思表示みたいなものがあれば、また全然違った道も歩んでいただろうし、気持ちの持ちかたも変わっていたに違いない。ここのところのたまたまの成り行きから避けたような結果になっていたとしても、裕樹からそれをとやかく言われる筋合いもないし、ましてやそれが理由で、手のひらを返したようなプロポーズなんて受入れられるはずもなかった。
「そんな勝手な話ってないよね」
涼子はわざと大きな声を出してそう言った。グラスのビールを一気に飲み干してからテレビをつけてみる。
NHKの7時のニュースが始まったところで、それほど珍しくもない現役国会議員の収賄事件をトップニュースで報じていた。チャンネルを変えてみたが、いつものようにつまらないバラエティ番組とYouTubeのパクリかと思わせるような番組内容で、同じような芸人と軽薄そうな女性タレントが出ている。民放の地上波はもう終わってしまったのかなと思いながら、CS放送に切り替えてプロ野球のライブを観る。珍しくタイガースが序盤で大量リードしているのでそのまま観ることにした。野球自体にそれほどの興味はなかったが、仕事上の雑談などで、話題として避けて通れなかったためテレビ中継やダイジェスト番組はよく観ている。画面では特に女性の間で人気のある外野手がフェンス際でファインプレイをして、大騒ぎのライトスタンドが大写しになっている。それを観ていて、ふと高木敬介のことを思い出した。以前、高木から聞いたことがある。会社で接待用にこの球場の年間指定席を購入しているので必要であれば準備するとのことであった。高木敬介なら今日の一件をどう判断するだろうか。一度訊いてみたくなった。女の扱い方もそれなりに慣れている高木のことだから、女性の立場から考えた適切な意見を提示してくれるに違いなかった。そう考えていると無性に会いたくなってきた。人は思いもかけない状況に陥り、その対応と決断を迫られたとき、自身である程度結論が出ているにもかかわらず、何らかの理由で最終決断できない場合、誰かに背中を押してもらうというか、おそらくその結論に同意してくれる誰かに責任を押し付けるかのように話してみたくなるものである。しかし、涼子の今の気持ちはそれとは少し異なっているようにも思えた。何が違うのか自分自身にも分かっていないのだが、ただ何となくそう思えた。
テレビの野球放送は序盤の大量リードのせいか、両チームとも淡白な攻撃を繰り返して、既に終盤に入っている。涼子は少し空腹感を感じていた。元々朝食はヨーグルトとミルクティで済ましているし、昼食は裕樹のせいでほとんど食べていない。冷蔵庫を開けて何かめぼしいものをと探してみたが、女のひとり住まいの食生活ほど貧しさを漂わせているものはなく、涼子もその例に漏れていなかった。仕方なくひとつだけ残っていたオイルサーデンの缶詰を温めて食べることにする。3缶目のビールをグラスに注ぎながらまた高木のことが頭の中に浮かぶ。確か明日はキャンペーンツールの内、ディスプレイの量産品が完成する予定だから、おそらく夕刻には会うことができる。そう考えると、さっきまで涼子の身体を包んでいた重苦しさが少しだけ取り除かれたように思えた。涼子は高木に自分の考えを支持してもらいたくて仕方がなかった。いや絶対に同意してくれるはずである。そしてその決断のもとに、裕樹のプロポーズをきっぱりと断ってしまいたいと考えていた。




