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「ちょっと歩かない?天気いいし、上のほうへ行ったら、たぶん富士山、きれいに見えるはずだよ」
裕樹は浅間神社に続く階段を指差した。涼子は裕樹と並んで歩くでもなく、ちょっと遅れて付いていく。裕樹は何度か振り返りながら涼子が付いてきていることを確認していた。
五重塔と富士山が1フレームで、雲ひとつない青空になかに切り取られた絵葉書のように見える場所に登りついた。この季節には珍しくすそ野までくっきりと見えている。
「きれい…」
思わず呟いた涼子はさっきからの腹立たしさとそれに伴う憂鬱がパッと晴れたような気がしたが、すぐに思い違いであることに気が付く。それは歩いている間もずっと無言だった裕樹がその景色を見て、横にいる涼子にゆっくり振り向いて発した言葉が引き金となっていた。
「涼子、俺と結婚してほしい…」
裕樹が突然発したその言葉に涼子は一瞬何が起こったのか理解できなかった。以前吸っていたタバコの煙のようにそのまま目の前を覆い隠し、それが周りいっぱいの濃霧になって、自分が丸ごと包み込まれていく錯覚に陥りそうになり、それまで頭の中にあった憂鬱の塊が一度に壊れ無数の粒子となって飛び散った。しかしその粒子は一瞬のうちに寄せ集まってさっきより大きな塊になっていた。
「涼子、聞こえてる?」
裕樹の呼びかけがその塊をさらに大きくした気がした。
「裕樹、何言ってるの?」
涼子は裕樹を睨みつけるような目で見た。
「結婚してほしいって言ったんだよ」
「突然そんなことがよく言えるわね」
「何で突然なんだよ。今日はそれ言うために誘ったんだから。プロポーズ!」
「何よそれっ、そんな勝手な話ってある?」
「どうしてこれが勝手なんだよ?」
「だってそうでしょっ。今まで付き合ってきて、そんなこと一度も言ったことないし、そんな素振りすら見せなかったよね?それを突然プロポーズって、それ、勝手じゃなくって何なのよ」
涼子は裕樹からまた視線を外して絶景の富士山を見る。
「涼子のこと離したくない。誰にも渡したくないんだ」
「そんなこと急に言っても、はいそうですかって言えるわけないでしょ」
涼子はまた裕樹を睨みつけた。
「涼子は俺のこと嫌いになったの?」
「だから、最初から好きじゃないって言ったはずよっ」
裕樹が車の中と同じことを聞いたので同じ答えを返した。
また沈黙が続く。
もう一度富士山に目を向けると、裾野辺りを名前はわからないが都会では見ないような大きな鳥が群れではなく1羽だけで飛んでいくのが見えた。このままではもっと重苦しくて暗い濃霧のなかへ放り込まれていきそうで、仕方なく涼子から口を開いた。
「あのね、裕樹。裕樹にそんな気持ちがあったんだったら、なんでもっと前に…。もっと早く、言ってくれなかったの?」
涼子は絶景の富士山を背景にして優雅に飛んでいくひとりぼっちのその鳥を眼で追っている。
「ここ最近になってから、その気持ちが強くなったんだ」
裕樹は涼子の顔を見つめてる。
「それが勝手だって言うのよ。なぜなの?それ。何か訳があるんでしょ?あたしは何も変わったことしてないつもりよ。」
涼子も裕樹に向き直ってしっかりその目を見た。
「いや、涼子は最近間違いなく冷たくなったよ」
裕樹も涼子を見返している。
「そんなことないわよ。どこが冷たいのよ?」
「避けてるような気もするし…、そう、やっぱ、他に男ができたのかって...」
「ふーん、そっか、それで慌てたってわけ?」
〈よくもまあ!それだけ勝手なことが言えるわね!〉
大声になりかけたが、隣で楽しそうにしている別のカップルがこっちを見ていることに気が付いて、その言葉を呑み込んだ。
涼子はその場から少し離れようと、踵を返してゆっくり歩き出した。
「待って涼子。ほんとに離したくないんだ」
慌てて裕樹もそのあとを追いかけた。
涼子は裕樹の言葉を無視したように駐車場の方向へ階段を下りていく。
しかし涼子にとってそれは、いくら考えても不合理にしか思えなかった。寝耳に水とまでは言わないが、いまの付き合いかたに涼子自身も少しの疑問はあった。しかしそれを許してきたのは涼子自身かもしれない。実際のところ、裕樹のことは嫌いではなかったし、29歳という年齢で、結婚のことを考えないわけではなかったが、今までの裕樹のそういった態度や振る舞いのせいもあって、その対象とすることにさほど強い気持ちはなかったはずだ。いや、逆に避けていたのかもしれない。
「涼子、どうしたの?大丈夫?」
駐車場わきまで下りてきたとき、遠慮がちに尋ねた裕樹に涼子は振り向いた。
「わかったわ。しばらく考えさせて」
「そうか、よかった。ゆっくり考えてくれればいいよ。いい返事がもらえるまで待ってるよ。親にも紹介するから」
裕樹は何を誤解したのか、涼子がそれを承諾することを前提にしたような口ぶりで、急に笑顔になって何度も頷いた。
その日は忍野八海をぶらぶらしながら時間を過ごして、高速道路が混む前に帰路についた。その間も裕樹は機嫌よく普段より多弁であったが、涼子は逆に腹立たしさと気の重さで、から返事を繰り返すことしかできなかった。




