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次の朝、涼子は夏の暑さも通勤ラッシュの鬱陶しいさも苦にならないほど気分よく出勤することができた。何度となく着信していた裕樹のLINE以外では。
涼子は自席に付いて、社内メールで送られてきた通達文書などをチェックしていると、スタッフの上田が色指定シートを持ってきた。
「おはようございます。朝からいきなりで申し訳ないんですけど、あのう、これディスプレイの前面用POPなんですが…」
「あ、おはよう。今日も早いわねぇ」
涼子は確認済みスタンプを入力したメールを返送しながらモニターから目を上げた。
「これ、チーフのイメージとちょっと違うんですけど、こっちの色使いのほうがメリハリついて、いいように思うんですけど、ダメでしょうか?」
涼子は差し出された色指定シートとカラーチャートを見比べながら、自分がディレクションしたイメージを頭の中で検証してみた。デザインやカラーイメージについては、常に頭の中に入れておかなければ、緊急修正するときなどに的確な指示が出せないのである。確かに上田のプランのほうがしっくりきているように思えた。ディレクションした際にそのカラーバランスが浮かばなかった自分自身に少々腹立たしさを覚えながら、涼子は素直にそれを認めることにした。
「うん、そうね、このほうがいいわね。クライアントには私から連絡しておくから、それで進めてくれていいわ」
「ああ、やっぱりチーフに言ってよかった。ほんとは怒られると思って、プレゼンのまま進めようって考えていたんですけど、どうしてもこっちのほうが捨てきれなくて…」
上田は後頭部を掻きながら内心ほっとした様子だった。
「そうよ、デザイナーとして進言すべきことは絶対にやらなきゃダメよ。でないと、単なるフィニッシャーに落ちぶれちゃうから」
涼子も以前は自分もそうだったと上田に伝えた。
「ありがとうございます。これからもチーフの作品に一生懸命ケチつけさせてもらいます」
「こらっ、調子に乗るんじゃないっ」
涼子は上田が持ってきたカラーチャートで上田の腹を2度突いて笑いながら嗜めた。上田が持っているセンスや才能を以前から高く評価していた涼子にとって、上田が自分のスタッフであること自体を頼もしく思っていたし、またそれを涼子の力でもっと伸ばしてやろうと考えていた。
「上田君、麻生ちゃんや佳織ちゃんの分もできるだけ目を通しといてよね。何かあったら私に言ってくれればいいから」
「はい、わかってます。チーフの信頼は決して裏切りませんから」
上田は右手の掌を広げ額の上に掲げると小さく最敬礼してから自席へ戻っていった。
涼子は上田と打ち合わせしたときや、2人でプレゼンテーションした後などは、決まって大橋裕樹のことを考えてしまう。同期入社で営業と制作の立場の違いがあるとしても、仕事の進め方自体は同レベルであって然りなのだが、裕樹のほうが格段に頼りなく思えてくるのである。実際の営業現場にも何度か同行しているが明らかにそう見える。プライベートの付き合いがあって、特別な感情をもっているせいか、もう少ししっかりとした行動や言動をとってほしいと常々考えてしまう。しかし一向に改善しないのは涼子のその思いとは裏腹に涼子自身が裕樹を甘やかしているせいなのかも知れない。
自席に戻る上田の後ろ姿を眺めながら、そんなことを考えているとLINEメールの着信音が入った。
《昨日どこ行ってた?》
昨夜から何度か着信していたメールと異音同義だった。そういえば、昨日からこれで5度目のLINEだったが、ひとつだけは既読スルーして、残りはすべて無視していた。
【どこでもいいじゃない】
既読を待ってたかのように即答返信だった。
《8時にマンションの前で待ってるから》
【私はあなたの女じゃない。何を偉そうに…】
そこまで入力したが発信するのは思いとどまり、その文面を削除し既読スルーにした。しかし考えてみれば、常に上から目線の男であろうとする態度と、自分に甘えてくる子供のようなところを兼ね備えた裕樹のことが気に入って付き合っているのは涼子自身なのであった。
「いつもお世話になっております」
聞きなれた元気のない声が受付カウンターから聞こえた」
「上田さんお願いします」
「あ、高木さん、ちょうどいいところへ来た。前面POPでちょっと変更出てるから」
上田は自席で手を挙げている。
「はい、私もディスプレイの最終サンプルを持ってきましたので確認お願いします」
高木はディスプレイのサンプルをかかえてミーティングルームへ行こうとしている。
ミーティングルームで上田と高木がサンプルを見ながら打ち合わせしているところへ涼子がやってきた。
「いつもありがとうございます」
高木はすぐに立ち上がって一礼した。
「おはようございます」
涼子はテーブルの上に置かれたサンプルの周りを見回して全体のイメージを確認している。
「問題ないみたいね。上田君、どうかな?」
涼子はテーブルに着きながら上田を見た。
「ええ、指示通りに出来上がっていますし…うん、そうですね。OKです」
上田は詳細部まで注意深くチェックしながら頷いた。
「それで、さっき言ったように、このPOP部分の色、変えますから、量産前にもう一度ここだけでいいですから見せてくださいね」
上田はPOP部分を指差しながら、カラーシートを差し出して、そのイメージを説明している。
「承知しました。確かにこのほうがメリハリ付いてて、いいかも知れませんね。この部分は最終工程ですから問題ないです」
高木も納得した様子だった。
「じゃあ、これでお願いしますね。納品までに何かあるようだったら、上田から指示させますから」
涼子がこのディスプレイに関して、ほぼ上田に任せることを高木に告げて出ていこうとしたとき、高木が呼び止めた。
「山野チーフ、来週のマスター承認の件ですけど、予定よりちょっと早まりそうです。来週水曜日の午後からだったら大丈夫なんですけど、ご都合いかがですか?」
「あら、そうなの?上田君、麻生ちゃん呼んできてくれる?」
涼子はディスプレイサンプルを抱えながらオフィスエリアへ戻ろうとしている上田に声を掛けた。
「あたしは大丈夫だけど…。麻生がね、今ちょっと忙しそうだから…」
涼子は難しそうな顔を高木に向けた。
「すみません。勝手なこと言って。でもちょっとでも早いほうが後々の段取りはかなりいいんです」
高木の言葉に涼子が何も返答しなかったために、しばらくのあいだ沈黙が続いて、見合いの席のような妙な雰囲気が漂っていた。
高木がそれを嫌ったかのように口を開く。
「あのう、それはそうと、昨日はお疲れさまでした」
涼子も昨夜の礼を言わなければいけないと考えていたが、仕事の途中で切り出すのも気が引けたので、高木からきっかけを作ってくれたことで内心ほっとしながら笑顔を向けた。
「いえ、たくさんご馳走になってしまって…。こちらこそありがとうございました」
涼子は微笑みながら頭を下げた。
「いえいえ、僕も久しぶりに楽しいお酒が飲めました」
高木は満面の笑みで応えた。
「あたしも久しぶりに楽しかったです」
「そうですか、それならよかったです。なんか自分のことばっかり喋ってたから、山野さん、気分悪かったんじゃないかなって考えてたんですよ」
「そんなことないですよ。なかなか愉快なお話で、本当に楽しかったです」
涼子は昨日のように敬語使いの話し方になっていた。
「もしよろしかったら、またご一緒させてください」
高木がそう言った時、内線電話が鳴った。
「はい、山野」
涼子が受話器を取ると上田の声であった。
「あ、チーフ。麻生さん、出力センターに行ってるようです」
「そうなの、じゃあいいわ。ありがとう」
涼子は受話器をおくと高木に向き直って頷いた。
「高木さん、麻生、いま外出しているみたいです。あたしのほうで調整しますから、そのスケジュールで進めておいてください」
「了解です。それじゃよろしくお願いします。来週水曜日は11時ぐらいにはお迎えに上がりますから、どこかで昼食取ってから行くことにしましょう」
「ええ、そうね。それでお願いします」
涼子はいつもの口調に戻っていた。




