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アラサー目前の山野涼子は小さな広告代理店で3人のデザイナーを部下に持ってチーフディレクターとしてひとつのチームを任されていた。ある日、取引先の新たな営業担当としてやってきた高木敬介はごく普通の男性だったが何となく好感が持てた。
小高い丘の展望台に来ている。駐車場に停めたパールホワイトのカムリの運転席で、窓を全開したドアに片肘だけを覗かせる。身体を捻って肘の上に顎を乗せ、たくさんの車が行き交う高速道路を見下ろしていた。高速道路の左側には白いリゾートホテルが建っている。周りの山並みが美しい。その景色を懐かしく見渡しながら、いま自分が助手席ではなく、運転席にいることが心の中に妙な違和感を持たせていた。涼子は独りぼっちだった。秋の柔らかな陽射しが、端正な横顔を穏やかに照らしているにもかかわらず、肌寒さを感じていた。涼子のそばには敬介がいた。そう、あの夏の日もいつもの優しい笑顔で。
高木敬介が山野涼子の勤める広告代理店に営業担当員として訪問するようになったのは、全国的に桜開花予報が発表され、まさに春真っ盛りの頃であった。
「いつもお世話になっております」
営業マンにしては、どちらかというと元気のない声に特徴があり、愛想のよい笑顔が印象的である。
「山野さん。このあいだの納品書に間違いがあったらしいですね?もしかして、その件でしたか?お電話は」
「そう、発注番号が間違ってるようだから確認しようと思って。今日締めですからね」
「すみません。なにしろ、まだ山野さんところのシステムをよく理解してないもので」
それほど申し訳なさそうにもせず、特段ハンサムでもない顔に笑みを浮かべた。
「ほんとうに悪いと思っているのかしら?」
涼子は意地悪そうな顔を無理に作ってみせた。
「そんな顔していると、しわ増えますよ。折角の別嬪さんが台無しです」
この会社の担当になって、まだ一か月足らずとは思えない図々しさがある。でも、嫌みっぽく聞こえないのは30過ぎとは思えないゆったりした話しかたと、最近では珍しくなったアメリカントラッドのスーツをきちんと決めた清潔感のせいかもしれない。
「で、山野チーフ。スマホに着信あったのは気付いていたんですけど、運転中だったし、たまたま近所を走っていたものですからお伺いした方が早いかなって」
この出会いが自分の人生を大きく変えてしまうことになるとは、涼子自身にも予測できるはずもなかった。