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向こう側から歩いてくる人だかりに、うんざりした気持ちで端に寄り頭を垂れる。
それでも昔に比べれば、と言っていたけど、院長を先頭にしたヒエラルキーを証明する列は、乱れることなく廊下を進む。
院長は外科なので内科の私と完全にテリトリーが違うから、私がこの列に混じることはない。もちろん私も、これのミニチュア版みたいな内科部長の回診の列にはくわわっているのだけど。ただ、これだけ大袈裟な列には加わりたいと思わない。
「院長?」
外科部長が怪訝な声を出している。それはそうだ。さっきまで淀みなく進んでいた列が急に止まったのだ。
…私の目の前で。
ものすごく嫌な予感がして頭を上げれば、院長と目が合う。
まさか。
この間清春が打ったメールの行き先にようやく思い至る。
「香織、辻原くんと今夜うちに来なさい。婚約祝いをしよう。」
院長の歩みが止まって静まり返っていた廊下が更に静になった気がした。
一瞬あっけに取られたけど、その次の瞬間には血が沸騰したように沸き立つ。
声には出さないけど、心の中で清春をありとあらゆる言葉で罵倒する。
「香織?」
怪訝そうな院長の声に答えたのは、私じゃなくて外科部長だ。
「院長と内科の藤先生は…ご親戚だったんですね?」
「言わなかったかね? 香織は娘だよ。」
静かだったはずの廊下に、衝撃が走った。
列の先頭から後方まで。
言ったよ、言いやがったよ。言わないって約束してたのに!
「約束が違います。」
私が娘だって絶対言わない約束でこの大学に進んでこの病院に入ったのに!
有名教授(入学時)の娘とわかれば面倒なことになりそうだったし、院長(入職後)の娘とわかればもっと面倒なことになりそうだったから、ひっそりと過ごすために、私は院長との関係を一部の人にしかあかしていなかった。信頼できる人だけが知っていることだ。
個人情報保護の観点はあるとは言え、書類上で身分は割れやすい。だけど、私がこの大学に進んだ時、院長…お父さんとお母さんは海外に行っていて、保護者が埋めるべき名前の欄を叔父夫婦に頼んでいた。そもそも私は中学から全寮制の学校に進んでいて、高校を卒業してからは一人暮らしをしている。住所も違うからその間に海外に行ってしまった両親の存在と私の存在は、結び付けずらかったらしい。
だから、書類上では私の身分は割れにくかった。幸い私はお母さん似だったし。もちろん、藤という名前が珍しいことは知っていて、その名前からお父さんと結びつける人間がいないことはなかったけど、へぇそうなんだ。と返事するだけで事は済んだ。名前は単なる偶然なんだと相手が勝手に結び付けるから。
そもそも、そんなに嫌なら他の大学に進めばいいって話なんだろうけど、お父さん(スポンサー)に懇願されたことと、入学時にはお父さんはここにいなかったから、とりあえず大学生活はほぼ無関係だろうと思っていたこともある。
それで職場を他の所に変えればいいだけの話なんだろうけど、師事したい教授がここの大学にいたもんだから、他の所に就職する気持ちにはなれなかった。
だから、お父さんにはくれぐれも、と念を押し、入職時の書類はまた叔父夫婦に頼んだ。この方が身元がばれにくいと踏んで。
なので、今日の今日まで、私が父の娘だと考えた人はいたかもしれないけど、会っても最低限の挨拶しかしない私たちを親子だとは思えなかったようで、ここに入職してからも、私の周りは平和だった。
お父さんも私の気持ちはわかってくれたようで、ここでは接触してこなかったし、私が娘か親戚かと尋ねられても、へぇ同じ苗字なんだね、と返していたらしい。
昨日までは。
「辻原君からOKが出たって連絡が来たよ。」
…確かに、やって、と言った。
だけど、これをやるとか、思ってもみなかった。
やられた。
「…そうですか。」
「じゃ、また今夜。」
さっと手を上げて進みだす院長に、私はため息をつくしかない。
院長の後ろにつく集団は、私をまじまじと見たいだろう気持ちはあふれているけど、残念ながらそんなぶしつけなことはできるわけもなくて、ちらりと視線が合うくらいのものだ。
その視線には、色んな感情が載っている。
でも、一番後ろの方にいる清春のことで私に忠告してきた人たちは、明らかに顔色が悪い。
…まあ、これなら確かに二度と私に言ってこないだろうけど…。
結局、威を借るキツネになってしまったなぁ、ともう一度ため息をつく。
でも、こうなったら仕方ない。
人の態度がどう変わるのか見て楽しむくらいしかない。
…今の回診の列に混ざっていなかった清春を後で罵倒しておこう。きっとオペがあって疲れてるんだろうけど、言わなきゃ気が済まない。
はて、何でこんなことになったんだっけ、と我に返る。
あ、そうそう。お見舞いに行かないと、とあの小さな子供たちの写真を思い出す。
今日はどうやら実家に顔を出さないといけないらしいから、明日にでもお見舞いを持って赤ちゃんを見せてもらいに行こう。
ついでに、いつ我々が結婚するのかとやきもきしてくれていた大好きな先輩に、結婚します、と教えてこよう。
完
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
楽しんでいただければ幸いです。
とりあえず、出すつもりの短編は、これで終わりになります。(そもそも手元にほとんど残ってないので)
落ち着いたら他の長編を公開、または新作を書いていくと思いますので、また機会があればお付き合いいただければ、と思います。




