トイレの花子さんより怖いかもしれない話
トイレって、特別なプライベート空間だな、と今更だけど思う。
明らかなこの個室スペースに入ってしばらく深呼吸するだけで、さっきまでざわついていた心が落ち着く。
ここが薄汚いトイレとかでも、きっと落ち着くのは落ち着くんだろうけど、このトイレは特にフローラルな香りに満ちていて、隅々まできれいに磨かれているから、更に落ち着く。
このトイレがここにあったのを、本当に感謝したいくらいだ。
さっき、急に恐怖に襲われた。
トイレの花子さん的な何かではない。そもそもトイレの花子さんが怖いって言うなら、こんな風にトイレにこもったりはしない。
うん。トイレの花子さんのことを考えられるくらいには、冷静にはなったみたいだ。
もう一度ふー、と息をつくと、これからのことを考える。あと30分くらいはあったはずだ。その間にできることを考えよう。
とりあえず、私ひとりじゃきっとどうにもならない。下手したら緊張して錯乱してるとか変なことになりかねない。
あの恐怖の出来事の後に、錯乱してるレッテルまで貼られたら、私の精神はズタズタだ。
そう思うと、今日来ている中で一番役に立ちそうなのは、犬猿の仲とも言える従兄弟だった。
頼るのは癪に障る。だけど、この30分で話をまとめるには、従兄弟の力を借りるしかないだろう。
何しろ従兄弟は、弁護士だ。弁護士って名前を出しただけで、きっと人は真面目に従兄弟の話を聞いてくれるだろう。従兄弟がどんなにいけ好かない奴だったとしても!
私は早速、知りたくはなかったけど勝手にスマホに入れられていた従兄弟の番号を選ぶ。
『もしもし?』
訝し気な従兄弟の声に、出てくれたとほっとする。
「珠緒なんだけど。」
『それはわかってるけど、何で今俺に電話してくるんだ?』
本当に怪訝そうだ。私が個人的に従兄弟に電話したのも生まれて初めてだからね。そりゃ、そんな気分にもなるだろう。
「あんたに用事があるからでしょうね。」
『…それ以外にはないだろうけど、このタイミングで俺にある用事って?』
「契約破棄とか詳しいわよね?」
『まじかよ。』
それだけで理解してくれた従兄弟の頭の回転の速さに安堵する。これですぐに理解してくれなかったら、ぶちのめすだけだけど。ま、この年になるまで同い年の従兄弟とは散々言い合いをしてきたのだ、その頭の回転の速さは身に染みるほど知っている。
「まじよ。それで、詳しいの詳しくないの?」
『それは任せろ。で、どっち?』
「当然、払ってもらう方。」
従兄弟との会話は必要最低限の言葉数だけで通じてしまうから、話し合いは楽かもしれないと初めて思う。まあ、話し合ったのが生まれて初めて見たいなもんだし、知るわけもないんだけど。
『理由は?』
「そりゃ、不法行為でしょ。」
従兄弟が言い合いの時に嫌でも法律用語使ってくるから、私の口から普通に法律用語が出てくる。
『相手は?』
「2人。」
『2人? 1人はわかるけど、もう1人は?』
「間宮さん。」
従兄弟が電話の向こうで息を呑んだのが分かる。そうだよね、やっぱりそんな反応だよね。
『…俺、挨拶したよな?』
「してたね。」
『あの人か?』
「間違いなく。」
私は見えてもいないのに大きく頷く。
『今日気付いたのか?』
「実は前から薄々気付いてた。まさか間宮さんだとは思ってなかったけど。」
『気づいてたんなら、さっさと止めとけば被害少なかっただろ。アホだな。』
「人の傷に塩塗る必要なくない?!」
私が怒ると、従兄弟は大きくため息をついた。
『本当のことを言って何が悪い。』
「あんた腐っても弁護士でしょ! 弁護する相手に塩塗るって何よ!」
『大丈夫。俺が塩塗り込むの、お前ぐらいのもんだから。』
「絶対その本性人にばれてるわよ! あんた個人事務所開いたんでしょ、仕事なくて困ってるんでしょ!」
『それが、ものすごく評判が良くて仕事がありすぎて困ってんの。心配してもらわなくても大丈夫。』
「嘘でしょ!?」
この従兄弟が評判いいって!? みんな騙されてますよって言ってあげたい!!
『とりあえず落ち着け。時間ないだろ?』
従兄弟のその言葉に、急に現実に戻された。
「そうね。」
『じゃあそれ、証明できるか?』
「証拠はある。」
『証拠あるのか。デジタルのデータ?』
「勿論。でなきゃあんたなんかに頼むもんですか。あんたのことだから、証拠もないのに頼るなって言いそうだし。」
『それは言えてる。』
ククク、と楽しそうに笑う従兄弟に、私は笑う気分じゃないんだけど、と思う。
「で、受けてくれるの?」
『いいぞ。親戚のよしみで特別価格でやってやるよ。』
「別に特別価格の必要はないけど。かかった費用は相手からがっつりもらってくれればいいから。」
こうなったら、とことんやってろうじゃない、と思えて来た。うん。まあ精神状態は安定した。まさか従兄弟と喧嘩したおかげだとは思いたくもないけど。
『それもそうだな。で、具体的にどうしたい?』
「お金は1円も払いたくないし、資格のない人間は辞めるべきだと思うし、今後一切関わりたくない。」
1つ目と2つ目は、可能かなと思っている。でも3つ目は難しいかな、と思っている。何せ職場が一緒だから。だけど、せっかく従兄弟に頼むなら、無理難題の一つくらい頼んでみたい。
できないって言うのを、そうだろうね、とバカにしたいだけだけど。
『それだけ?』
だけど、従兄弟の返事は予想外だった。
「それだけって…3つ無理でしょ?」
『いや、やれる。で、他にはないか?』
まじで! …従兄弟のスペック思った以上にすごいかも。…でも、どうやるんだろう。ま、いっか。今時間ないし。
「えーっと、私的には、それくらいしかないかな。」
『他にもできそうだけどな。』
「…とりあえず、始まる前に終わらせたいんだけど。それはできる?」
『勿論。ところで今どこだ?』
「トイレ。気づいて逃げ込んだ。」
『ま、そこにいるのが居心地悪くないなら、俺が連絡するまでそこに居とけば?』
「そうする。」
『シュールだな。』
「もう仕方なくない? じゃ、よろしく。」
からかう従兄弟に、珍しく怒りは沸いてこなかった。珍しいこともあるものだ。
ふぅ、と息を吐くと、私は目をつぶった。
これからのことを考えると、少しでも英気を養っておきたいから。
「佐竹様。あと5分で時間です。」
トイレのドアの向こうで、気をもんだ声がする。
タイミングは良かった。丁度今、従兄弟から準備ができたと連絡が来たところだったから。
5分前って言うところが、ちょっとと思わなくもないけど、あの時間でほぼ全員をそこまで説得したと思えば、よくやったと言うべきか?
私がドアを開けると、ホッとした顔をした相手と目が合って、ニコリとほほ笑まれる。その笑顔は正しく、私のことを想ってくれている笑顔だ。
「すいません。控え室に戻ってもいいですか? ちょっと忘れ物しちゃって。」
「えーっと、あと5分ですよ?」
「行きます。」
私は有無を言わせず、控え室に進む。
この世で一番怖いものは、トイレの花子さんみたいに幽霊とかお化けとかそんな目に見えないものじゃない。
幸せを喜んでいるふりをしてその幸せを平然とした顔をして壊す人間だ。
あと5分。そう言われた私が向かうのは、訣別の儀式だ。
控え室には会社の同僚でもあった新郎と新郎のご両親と私の両親と会場の責任者といけすかない従兄弟がすでに揃っている。
ドレス姿の私の後ろを歩くブライダルコーディネーターが私の彼氏と浮気していた。
5分後の結婚式は、始まらない。
完




