長谷川君は聖人に違いない⑧
はー、と息を吐く。
緊張から解き放たれる瞬間は、試合の結果によって、心地よかったり苦々しかったりする。
空手の形というものにも試合という形式がある。
一対一で、横に並んで、よーいドンでそれぞれの形を披露する。
組み手も同じだけれど、練習の成果が試される。
戦っている相手はいるけれど、自分との戦い。
今さっきの試合は勝った。集中して”ゾーン”と呼ばれるものに入れた気がする。
時折あるあの感覚は、まだ全部自分のものにはなっていなくて、それがいつも得られる感覚になれば、私はもっと強くなれるんじゃないかと思っている。
どうしたらいいのかは、全然わからないけれど。
今日は住んでいる市で開かれている空手の大会で、小さいけれど、それでも同じように切磋琢磨してきた人たちが集まるから、試合慣れの練習の意味もあって参加している。
そんなに数がいるわけでもないから、試合数も多くはない。
さっき1試合して勝って、あと1試合して勝てば決勝になってしまう。
集中。それが一番大事。
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残念ながら、決勝で負けた。
悔しい。でも、相手は私よりもずっとベテランの黒帯の大学生。
しょうがないとはわかっていても、悔しくて涙がこぼれる。
「純さん、すごかったね!」
汗を拭くふりをして、涙を拭いてたら、ふいに声をかけられてびっくりする。
「え? 長谷川君?! 何で?!」
顔をあげると、そこには長谷川君と君津君の二人が立っていた。
…確かに長谷川君に市の大会があるとは言った。言ったけれど、見に来てね、といった記憶はない。
そう、誘ったわけではないから、この場所に長谷川君がいるのに驚いている。
…ついでになぜ君津君がつっくいてきているのかわからない。
「見に来ちゃダメだった?」
私の驚きの様子に、長谷川君がしょんぼりとして、君津君がかみつかんばかりの様相で私をにらむ。
「いやいや、そういうわけじゃないんだけど! 誘ったつもりはなかったから、来てるのにびっくりして! それに君津君までいるし…」
私はあわてて言い募る。
何で組み手の時の相手の眼光はそれほど怖くないのに、君津君に睨まれると怖いんだろうな!
「ちょっと見てみたくなって!」
「…長谷川が行きたいって言うから…」
それぞれに来てくれた理由を述べてくれる。
無邪気な長谷川君に、安定の理由長谷川君な君津君。
私は苦笑しか出ない。
「ありがとう。応援に来てれる人がいると、正直嬉しい」
まあ、それでもそれも素直な気持ちだ。
「最後負けちゃったのは残念だったけど、かっこよかった。ね、君津君」
「あー。なんて言うか、空手の形って言うの? エロいな」
かっこよかったとの称賛に嬉しいと思った直後、予想外の君津君の言葉に私はピキリと固まる。
「ちょ、君津君! エロいって!」
「え? なんかさ、腰の動きがエロくないか?」
「純さんに失礼でしょ!」
そう言いながら、段々と長谷川君の耳が、顔が、赤くなっていく。
最初に”エロい”発言をした君津君の方は、平然とした顔をしたままだ。
「でも、そう思ったんだから仕方ないだろ…。何で長谷川そんなに照れてるんだよ」
今の今まで長谷川君の顔色の変化に気づいていなかった君津君が、耳を真っ赤にしている長谷川君に気づいて驚いている。
「そんな風に見てなかったのに、君津君がそんな風に言うから!」
珍しく拗ねたような怒った様子の長谷川君に、君津君が焦る。
「ワリー! そんなつもりで言ったわけじゃない!」
「…うん、いや僕が反応しすぎてるだけだね」
幾分冷静さを取り戻したらしい長谷川君が、ちらりと私を見て、そっと目をそらす。
「ごめんね、純さん。恥ずかしい思いさせちゃって」
「…ワリーな」
確かに私の顔も赤くなってるだろうと思うけど! 二人に謝られても困るんですけど!
それに、長谷川君のその目を合わしてくれない態度が、ますます恥ずかしいんですけど!
その周囲がザワリとして、私は注目を集めていることに気づいて恥ずかしくなって更衣室に逃げ込んだ。
だけど、遠巻きに見ていた人たちがザワリとなったのは、君津君が私に対して謝ったからだというのを知るのは、すべての試合が終わった後。
その帰り道、道場の先輩に「お前スゲーな」と言われてからだった。
うちの道場の増見は、狂犬君津を従えている。
そんな間違った情報が、うちの道場内に駆け巡ったとか駆け巡らなかったとか。




