長谷川君は聖人に違いない①
「ますみ!」
「はい?」
「何?」
男子に呼ばれて同時に反応した声に、ざわめいていた教室が一瞬静まる。
反応した一人である私は、もう一人の方に視線を向ける。
「あー。そっか。二人とも”ますみ”か!」
クラスメイトが納得の声を漏らす。
私の名前は増見純。
返事をしたもう一人は、長谷川真澄君。
確かに二人とも”ますみ”に違いない。
私が長谷川君の下の名前を知ってるのは、今日が高校の入学式で、クラスで自己紹介した後だから。
「えーっと、女子の増見の方! 春休みの課題、出してる?」
どうやら目的は私だったらしい。
「出してるよ」
「あ、本当だ。ワリー」
謝られたクラスメイトに私はうなずく。高校入学前に出された宿題は、きっちりやって来た。一応真面目だけが信条だ。
「えー。真澄ちゃん、真澄ちゃんって呼んだら紛らわしいな!」
ゲラゲラとおちょくるような声が教室の端から上がる。
それが長谷川君の方に向いてるから、揶揄われているのは、長谷川君。
とたんに教室の中に、嫌な空気が湧いてくる。
女子たちはちょっと嫌そうな顔をして、そのおちょくる男子たちを見ている。
「じゃ、マー君でいこうぜ!」
そのうちの一人の声に、またゲラゲラと笑い声が起きる。
「な、マー君!」
「呼びやすいなら何でもいいよー。その方が増見さんが名前区別できて困らないだろうし」
ふざけて呼びかけられた言葉に、ニコニコと笑っている長谷川君に、教室に生まれていた嫌な空気が少しだけ消し去る。
でも、むしろ私は心配になる。
「長谷川君でいいでしょ!」
その呼び方が、相手を嘲る言い方で、下手したらいじめとかに発展しかねないと思ったからだ。
「うっぜー」
「うっぜーじゃないわよ! 文句あるなら出てきなさいよ。私黒帯だけど!」
「げっ。何、女子の増見の方は暴力女かよ!」
「口先で人のこと揶揄うしか脳がない人間に言われたくないわよ!」
「増見さん、いいよ。僕大丈夫だから」
おっとりとした様子で私に近づいてくる長谷川君に、私の方が不安になる。
「でも!」
「きっと彼らは僕と仲良くしたいってことなんだよー」
「そうだ、そうだ! 僕らはマー君と友達になりたいんだって!」
またゲラゲラと湧き出る笑いに、私はギロっと、その方向を睨みつける。
「ところで、増見さんは何習ってるの?」
全然気にもしてない様子で私に問いかけてくる長谷川君に、毒気をぬかれた私はやや途方にくれつつ口を開く。
「空手」
「へえー。流派とか?」
「言ってもわからないと思うけど…糸東流」
「そっか。僕はね、剛柔流習って…」
え、とさっきまでゲラゲラ笑っていた方向から声が漏れる。
私だってちょっと驚いている。
まさか、こんなにひょろりとした長谷川君の口から、空手の流派の名前が出てくるとか思わなかったし!
「ま、マー君はやめとくわ。長谷川でいいよな!」
その周囲で同意を得た呼び名は、どうやら確定したらしい。急にその呼び名を変えた声に、当の長谷川君が目をぱちくりとしている。
「…どうしてそんなに戸惑ってるの?」
小さな声で問いかけると、長谷川君も小さな声で返してくる。
「何で呼び名が変わったんだろうと思って」
「今、空手の話したでしょ? そのせいだと思うけど?」
長谷川君の戸惑いの理由がわからない。
「僕、小学生の時かじったくらいで、オレンジ帯位でやめちゃったんだけど」
その言葉を聞いて、ようやく成る程と納得する。
長谷川君はまだそんなに級も上がってないうちに空手をやめたらしい。
「あー。成る程。でもきっとあいつら、話の流れで、長谷川君が黒帯持ってるって勘違いしたんだと思うよ」
「え。勘違いされてるなら言わないと」
慌てた様子の長谷川君に、私の方が慌てる。
「いいから。あいつらには勘違いさせときなって」
「え、でも…嘘ついてることになるよ?」
私はここに来てようやく、長谷川君がとんでもなく正直で、ちょっと天然が入っていることに気づいた。
「言わないだけだから嘘ついてることにはならない。実際には長谷川君、黒帯って聞かれたわけでもないんだし。あいつらが勝手に勘違いしてるだけだから」
それが正義だとばかりに告げれば、長谷川君はちょっと困ったように眉間にシワを寄せる。
「でも、本当のことあとで知ったら嫌な気分にならないかな?」
私は、長谷川君のこの天然具合に、いたく感激してしまった。
何だか…そう、まるで聖人みたいだ。
私はしっくり来るその単語が出てきて、そうにちがいないと一人頷いた。
「大丈夫だから」
私が念押ししたら何とか正直に言うのをとどまった長谷川君が、あ、と声を漏らしたので、私は長谷川君を見る。
「増見さん、空手を暴力に使っちゃダメだよ?」
小さい子に言い含めるようなその言い方に、私は脱力するしかない。
あ、はい。それはその通りです。間違いはないです。
私は聖人の前に、こくりとうなずく他はなかった。




