奇跡の海
忘れたい記憶も忘れていた過去も、全部海の中に置いてきた。番外編2
カーテンに仕切られた中は、薄暗い。周りの話し声もざわざわと聞こえる。
あの時以来病院に入院したことのない渉は、ちょっとした居心地の悪さを感じながら、ネクタイを緩めた。
「海は生命の源だろ。だから……」
渉は、仕事が終わって病院に来るまでの間考えていたことを口にした。
「えー。じゃあ、北沢海太郎?」
パジャマを着てクスリと笑う朝陽に、渉はムッとする。
「海に関する名前にしたいってこと。その名前は却下な」
渉の目は、朝陽が抱っこしている小さな命に向けられる。
一昨日生まれたばかりの命。
母子ともに無事に生まれてきたことに、本当に安堵した。
『出血が止まらなくなるかもしれないから、今日産むことになった』
一昨昨日、検診に行った朝陽からもらったLINEに、渉は青ざめた。出産予定日はまだ2週間ほど後のはずだった。
LINEではらちが明かないと電話をすれば、のんびりした声で『血液検査の数値が悪くて、もしかしたら出血が止まらなくなる可能性があるから、早めに産むことになったらしいよ』と、まるで他人事のような、いつもと同じ朝陽の態度に一応安堵した。
でも、朝陽はどんな危険な状況だと言われても、のんびりしていそうだ。
渉はマイペースな朝陽に振り回されることも多かったが、そのいつでものんびりした空気に救われることも多かった。いや、実際救われていた。
高校時代に出会った時には、単なる友達だった。大学生、社会人になっても、時折会って気兼ねなく話ができる友達のままだった。
だが、朝陽が目の前からいなくなりそうになって、朝陽が自分に必要な人間なんだと気付いた。
渉が付き合って欲しいと言った時の朝陽は、本気で驚いていた。それでも、朝陽は頷いてくれた。でも、朝陽は朝陽だった。予定通り、あっさり海外には行ってしまった。それから2年、遠距離恋愛の末に、渉と朝陽は結婚した。
朝陽が海外から戻ってきたのは、やりたい仕事が日本にあったから、だった。結婚した翌年のことだ。それまでは遠距離婚だった。
離れていても渉が結婚を望んだのは、朝陽に何かがあったときに、何も知らされることのない立場でいることが嫌だったからだ。
どうして朝陽が結婚することにオッケーしてくれたのか、実は渉もよくわかっていなかった。「したいと思ったから」が、朝陽の答えだった。
渉自身、誰かと付き合うとか、誰かと結婚するとか、朝陽に目の前からいなくなると突きつけられるまでは考えたこともなかった。
春佳のことに囚われすぎていたのだと、朝陽が「海外に行く」と告げるまで気づけなかった。
朝陽からの連絡を貰ったあと、渉はその足で出産休暇を取った。取引先との打ち合わせがなかったのが幸いした。出産休暇は3日。結局その当日には生まれて来なくて、翌日に子供に会うことになった。
出産予定日がまだ先だったから、名前を決めきれていなかった。
生まれるまで、そんなこと考えきれもしなかった。無事に生まれるのか、朝陽が大丈夫か、そこばかりに気を取られていたからだ。
生まれてきた赤ん坊に声を掛けた時、ハッとした。まだ名前を決めていなかったことを思い出した。
それから、朝陽と二人で名前をあーでもない、こーでもないと話し合っているが、お互いの出す案にピンと来ずに、まだ何も決まっていなかった。
そして今日、ふと思いついた。
それがいい、という確信にも似た気持ちがあった。
「海ねー。海かー。青!」
「青……か。ピンと来ない」
渉にとっての海は、伊野島のあの海だ。あの海の色は青ではなかった。
「エメラルドグリーン」
朝陽が楽しそうに告げた答えに、渉は呆れる。
「キラキラネームにもほどがある」
「波!」
「……いや、ない」
「カツオ」
「今、アニメに出てくる名前にスイッチしただろ。全部却下な」
「なんでバレるかなー」
「朝陽が考えることだからな」
呆れた顔で渉が言えば、朝陽が嬉しそうに笑った。
「何でそれで笑うんだよ」
渉が首をかしげると、朝陽が赤ん坊を抱き直す。
「私のことよく見てるんだなー、と思って」
突きつけられた事実に、渉は急に照れ臭くなって顔を背けた。
「何年の付き合いだと思ってるんだよ」
渉が照れ隠しに告げると、んー、と朝陽が首をかしげる。
「15年? あー。もうそんなになるんだねー」
もうそんなに経つのか、と思う。
高校に入ってすぐ、隣の席の朝陽に話しかけられたとき、語尾を伸ばすしゃべり方に春佳を思い出した。もちろん、性格が春佳とは全然違うことには、すぐに気づいた。だから、春佳と重ねたのは、最初に話しかけられたときだけだ。
「で、海にこだわってもいいんだけど、海じゃないといけない理由ってあるの?」
朝陽の問いかけに、渉が肩をすくめる。
「さっき言おうとしたら遮られたんだけどね。……ほら、この子ができたのって、奇跡みたいなものだから。生命も海の奇跡で生まれてきただろ。だから、どうかな、と思って」
朝陽が頷いた。
結婚して5年。海外にいたり、転職した朝陽の意見を尊重して、最初の3年は子供ができないように気を付けていた。
でも、そろそろいいかなって、という朝陽の言葉に、二人は避妊をやめた。だが、2年経っても、子供ができることはなかった。
朝陽が重い腰を上げて産婦人科に行ったのは、その時だ。
その時に、朝陽は評判のいい産婦人科から大学病院に行くように紹介状を書かれた。
朝陽の卵巣に病気が見つかった。ガンではないだろう、というのが医者の見立てで、でも大きくなって来ているから手術で取った方がいいかもしれないと言われた。大きくなった卵巣のせいで卵管がねじれると激しい痛みがあるし、卵巣が壊死するかもしれないとネットで見かけて、選択肢はないように思えた。
妊娠を考えるのはそのあとにしようと、手術の予定を入れた。緊急性がないからと、手術は半年以上もあとの予定で、正直拍子抜けした。
そのあとに子供を授からないようなら、犬を飼ってもいいかもね、と、朝陽が言い出したのはその時だ。朝陽もどこか妊娠を諦めている気持ちだったんだろう。
渉もその意見には賛成した。子供がほしくないと言ったら嘘になる。だが、朝陽との生活の方が大事だった。
妊娠が判明したのはそのあとだ。
朝陽も驚いていた。もちろん渉も。しかも、手術の予定日が出産予定日だった。
奇跡みたい、その言葉を、どちらともなく口にした。
「海の奇跡ね……。北沢プランクトン?」
朝陽の真面目な顔が、ニヤリと笑う。渉が半目になる。
「微生物」
「考えるのに飽きてるのかもしれないけど、真面目に考えて」
はーい、と、朝陽の軽い返事に、渉は肩を落とす。
たぶん、こうなったら、朝陽は真面目に考えようとはしないだろう。
プランクトンに微生物。完全に連想ゲームだ。
あ、と思う。
「生。いきるって書いて、生ってどう? 北沢 生。どう?」
今度は朝陽が半目になる。
「海と違うし」
確かに、と渉も苦笑する。
「ダメ?」
最初に思っていたのとは、ずれた。だが、それでもそれがいいと、渉は思った。
「生……セイくーん」
朝陽が赤ん坊に話しかける。
朝陽の今まではなかった反応だった。案外、なしではないらしい。
「あー」
赤ん坊の声が、明るい。
「気に入ったんじゃない? せーい」
渉は赤ん坊の手を握る。
小さな手が渉の指を握った。
小さな手は、温かかった。
完
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
楽しんでいいただければ幸いです。




