ビンタ
記憶
「次の満月の日に君は既に持っている記憶を失います」
最初にそう言われた時は何の冗談かと思ったが、医師の顔はいたって真剣だった。
「そのあと狼男にでもなってしまうんでしょうか」
と冗談めかして返した僕に、医師は黙って首を振った。
「月の引力と地球の磁場が関係しているとは言われていますが、いまだに詳しい原因や治療法は分かっていません。つまり、避けることはできません。ただし、記憶がなくなるといっても全てが赤ん坊の状態に戻るのではなく、他人と過ごした記憶だけがなくなります。それまでに学んだことや思考力などにはほとんど影響がないこと、そして自分の血の繋がった家族に関する記憶だけは保持されることが共通事例として報告されています」
どうやらドッキリというわけではないらしい。最近少し慢性的な頭痛がするから診てもらおう、なんて軽い気持ちで久しぶりに医者にかかったと思ったらこのザマだ。人生ってのは何が起こるかわからない。次の満月の夜に、もうあと十日後くらいだろうか、僕は自分の人間関係を白紙に戻すことになるらしい。
どうしたものだろう。簡素な部屋を見渡しながらぼーっと考える。
医師には「もし希望するならもっと大きい病院に入院してその日まで経過観察することも可能です」と言われたが、どうせ結果は変わらないのだからと断って僕はそのままの足で家に帰ってきていた。
これからするべきことを考える。急に記憶喪失になるわけではなく、それなりの猶予が与えられているわけだから、来たるその時に備えて何か準備をしておくべきだろうか。
一番最初に思い浮かんだのは忘れたくない記憶を紙や電子媒体に書き残しておくことだった。とはいえ、もともと交友関係の狭い僕のことだ。忘れてしまって困る人間関係などほぼ存在しない。大学の友人で向こうから話しかけてくるような奴はいないし、教授も自分の所属を学内サイトで把握してからまた覚えなおせばいい。学習した内容を忘れるというわけではないらしいから研究にも支障はないだろう。バイト先の先輩後輩くらいは書き残しておいてもいいかもしれない。記憶を無くした後の初出勤で先輩に対してタメ口で接してしまったら致命的だし、かといって後輩にうっかり敬語で話しかけて笑われるのも恥ずかしい。なんて、そんなことどうでもいいか。
こうやって、いざ自分の人間関係で忘れたくない繋がりだけを抽出していくと、自分の他人への異様なまでの無関心さに気付かされる。むしろ、中途半端に顔見知りで気まずい関係をこちら側から一切リセットできるというのはとてもいいことなんじゃないかとまで思えてくる。記憶喪失、悪くないじゃん。
本音を言うと、これは強がりだった。小さなメリットをどれだけ積み重ねてもそれを一瞬で飛び越えてしまう大きな大きなデメリットが一つ。千紗希、僕の彼女のことだ。千紗希は僕の一つ年上の先輩で、同じ大学に通っている。彼女と僕の出会いは公園だった。天気のいい日に僕は大学のキャンパスに近い公園のベンチでよく本を読んでいたのだが、どうやら普段から同じことをしている女の人がいたようで、そこで僕らは出会った。初めの方はその公園で、お互い読んだ本の内容や大学生活の憂鬱を共有し、談笑する程度の仲だったが、いつの間にかお互い恋心を抱くようになっていた。
千紗希は物静かな文学少女で大人しそうな見た目をしているが、実は心に芯の通った凛々しさを持っている。彼女と過ごしてきたこの一年間で僕はそれを何度も実感していた。彼女に僕が記憶を失ってしまうと言う既成事実を伝えたらどんな反応するだろうか。僕は自分でも嫌になるくらい臆病な人間だから、彼女と過ごした時間を忘れてしまうのだと少し想像するだけでも言いようの無い不安感に体全体が襲われて、すぐにそこから目をそらしてしまう。
そうは言ってもいつかは伝えないといけないことだし、一人で怖がっていてもしょうがないから僕は彼女に電話することにした。2コールですぐに彼女が電話に出る。
「もしもし、どうしたの?」
僕は彼女にこの嘘みたいな診断結果とそれに伴ってこれから起こることを過不足なく説明した。彼女はやはり最初こそ僕同様半信半疑に聞いていたものの、やがて戸惑いながらも状況を理解してくれた。さすが本好きなだけあって、読解力と聡明さを兼ね備えている。
「ええ…。とりあえず一応だけど、わかった。電話だとあれだから、今日そっちの家に行くね。もっと詳しく教えて」
僕はうん、と答える。
その晩、僕の家では作戦会議が行われた。
「そっか、じゃあ関わってた人との記憶だけがすっぽりと抜けちゃうんだ」
「そうみたい。いきなりそんなこと言われて僕も何が何だかわかっちゃいないけど」
僕は千紗希に自分の今の不安を全部吐露した。他の人とは比べものにならないくらい千紗希との記憶は僕にとって大事だしかけがえのないものだ。それを失うことへの恐怖を素直に口にする。彼女は黙ってこくこく頷いていた。やがて僕を抱きしめると、
「大丈夫。君が忘れても私はちゃんと覚えてるんだから。また一から思い出をいっぱい作っていけばいいんだよ」と耳元で告げた。
心の不安が解けていく感覚だった。「ありがとう」とだけ僕も口にして、しばらく二人で一つになっていた。
やがて彼女は、うん、うん、と自分を納得させるように一人頷くと、
「決めた、今日からその日まで私ここに泊まる」と宣言した。
「どうして?」
「だって、私の記憶がある今の君と過ごせるのがもうあと少しってことなんでしょ?一秒でも長く一緒に居たいから」
断る理由は何もなかった。普段から週に最低一回ほどは会っていたが半同棲みたいなことをするのは初めてなので、少しわくわくする。忘れてしまうことが確定しているのだけが残念だ。なんて呑気なことを思う。さっき千紗希に抱きしめられて僕の不安はだいぶ和らいでいた。
一度家に荷物を取りに帰るから、と彼女はコートを着てマフラーを巻いて、外に出る支度をして玄関の方へ歩いた。僕も見送りに行く。靴を履くと彼女は僕に抱きついて頰に軽くキスをした。僕の家に彼女がやってきて帰るときは、毎回そうやってお別れするのが恒例になっていた。その度に僕は彼女に恋をしなおしている。
「すぐ戻ってくるね」と出て行った彼女は、言葉通りその後一時間もしないうちに大きめのカバンを抱えて戻ってきた。そこから僕たちの不思議な半同棲生活が始まった。
一緒の部屋で生活するのは新鮮でとても楽しいものだった。昼間はお互いの用事を各自でこなして、夜は二人ベッドの上で布団にくるまりながらテレビを見たりゲームをしたり本を読んだり、だらだらと過ごして眠りにつく。あっという間に日にちが過ぎていった。
そしてついにその日が来た。
「今日、寝て起きたら、君はもう私を忘れているんだね」
千紗希の言葉に僕はこくりと頷く。医者によると満月の夜のノンレム睡眠中にその記憶消去作業は起こるそうだ。だったら寝なければいいのでは、と思ったが、どうやらそういう問題ではないらしく、むしろ徹夜をしてしまうようなことがあれば脳の他の部分にも影響しかねないため大変危険らしい。
「ねえ、電気消していい?」と聞かれる。
まだ夜の9時くらいだったが、今日ばっかりはもう何もやる気が起きないので睡眠モードに入るのに僕も賛成だった。灯りを消すと一気に暗闇が視界をジャックした。
彼女がおもむろにカーテンを開ける。青白い月光が部屋の中に入ってくる。綺麗だ。そうか、だって今日は何と言っても満月だもんな。
千紗希は黙って僕の胸に顔を埋めた。僕は彼女の背中に優しく手を回す。小刻みな震えが手のひらに伝わってきた。
記憶がなくなることを伝えてからもずっと毅然と振舞っていた彼女の隠していた弱さを見てしまった気がして、僕は動揺した。その動揺を彼女に伝わらないようにと、そっと鎮める。
「ほんとはね」
静かな部屋に声が生まれる。
「私ずっと怖いんだ。君が私を忘れてしまったとして、もう一度好きになってくれるのか」
記憶を無くす君の方が絶対もっと怖いのにね、と震え声を誤魔化すように千紗希は笑う。
僕は黙っていた。黙って彼女の背中をさすっていた。
「きっと、何回出会っても同じように好きになるよ」
だって、別れ際、毎回君に恋しなおしてるくらいなんだから。そう思ったけど、流石に恥ずかしくて言うのは自重する。
「私、今日は自分の家で寝るね」
しばらくそうしていたが、そのうち立ち上がって薄暗い部屋の中で荷物をまとめ出した千紗希に僕はなんで、と尋ねた。
「だって、初めての出会いがすっぴんでベッドの中なんて嫌だもん」
と彼女はいたずらっぽく笑う。
「間違いない。僕も朝起きたら知らない人が隣で寝てるなんてびっくりだ」
と冗談ぽく返す。
荷物をまとめ終わると明かりは点けないまま彼女は玄関に向かった。僕も見送りに立つ。
靴を履いて、僕の方に向き直ると彼女は言う。
「ねえ、今日のことも忘れちゃうんだよね」
「そうらしいね」
「じゃあ、悪口言っても大丈夫だね」
「えー、なんか嫌だなそれ」
苦い顔をする僕に彼女は笑って続ける。
「全く、最低な男だよ君は。こんな変な病気なんかかかってさ」
「うん、返す言葉もない」
「自分の彼女の名前も誕生日も好きなものも苦手なものもぜーんぶ忘れちゃうなんて」
「間違いなくクズ男だね」
「バカ彼氏」
「甘んじて」
「だからね、今日はキスはしません」
いつものようにキスしてお別れするつもりだったので思わず「えっ」と驚きの声が出てしまった。
千紗希は微笑みながら、覚悟しろ!と手を振りかぶる。パチンという音が盛大に部屋に響く。
“それ”をするなり、彼女は飛び出すように扉を開けて出ていってしまった。
一人取り残された僕は頰を押さえ、いってえ〜と呟いた。
次の日、目覚めは爽快だった。頭の中がやけにスッキリしている。朝日の差す布団の中で一人伸びをする。そして左頬になんだか違和感を感じて手を当てた。
「…なんか腫れてる?」
頰から感じる痛みになぜか無性に愛おしさを感じながら、僕はベッドから起き上がった。