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青葉闇奇談  作者: 黒崎リク
夏の章
3/29

其の二 十五夜に孕む


 訪れたのは、妙齢の女性だった。

 先生と同じか、少し年上くらいだろうか。日本髪を結い、亜麻色の地に朱色の花が描かれた綺麗な着物を着ている。黒い帯は高い位置で結ばれて、短いおはしょりの下は、ふっくらと大きく膨れていた。

 身重のようだ。黒い羽織を羽織った彼女は、重そうなお腹を大事そうに片手で押さえている。

 玄関の上がりかまちの段差が大変だろうと、スミが手を差し出すと、女性は礼を言って手を取った。


「ありがとう、お嬢さん」


 にこりと笑う。泣きぼくろが色っぽい美人さんだ。

 こちらです、とスミは居間――に作った簡易応接間に案内した。


「少々お待ちください。先生、すぐに見えますので」


 スミはそう言い残して、台所にお茶を用意しに向かった。途中、先生の寝室を覗いたが、まだ着替えが済んでいないようだ。


「先生、お客さん来られてますよ」

「う~ん……」


 先生は眠そうに生返事しながら、帯をもたもたと結ぶ。見ていられなくて、スミは「失礼します」と部屋に入って、先生の帯を手早くぎゅっと締めた。


「ほら、しゃんとして下さい。そんな寝ぼけ顔でお客さんに会うつもりですか?」

「んー……だってねえ、朝まで原稿してたんだよぉ……」

「先生が締め切りを守らないのが悪いんです」


 着物の衿を整えながらきっぱりと返して、先生を鏡台の前に座らせた。

 ぼさぼさの長い髪を櫛で梳く。細い猫っ毛は相変わらず手触り抜群だ。柔らかい髪を後ろで一つにまとめる。


「はい、できました。……ああほら、言った側から寝ないで下さい」

「起きてるよぅ……」


 頭をぐらぐらさせながら答える先生の背を押して、寝室から追い出した。

 ふらふらと居間に向かう先生を見送って、スミは急いで台所に向かった。



 薄めのお茶と和三盆の干菓子、先生用には豆大福二個を用意して応接間に入ると、先生はしゃんとしていた。あの寝ぼけ顔が嘘のようだ。

 美人の前だと格好つけるんだから、とスミは呆れつつ、テーブルにお茶を並べる。

 女性は少し頬を赤らめて先生に見惚れている。これは仕方ない。先生はちょっとそこらにいないくらい綺麗なお人なのだ。しゃんとしていれば。

 残念ながら、先生のしゃんとしていないところばかり見ているスミは、あまり見惚れることは無い。

 スミの登場に我に返ったのか、女性はお茶を一口飲んでほうっと息を吐いた。先生は大福を見てぱっと顔を輝かせ、一個を大きな一口で食べてしまう。そういうところは見せては駄目だと思う。


 幸い女性は気づいておらず、先生は口元に着いた粉をぱぱっと払った。


「さて……お話をお聞かせ願えますか?」

「ええ……」


 女性は膨らんだお腹をそっと撫でながら語り始めた。




***




 ――名を名乗ることは叶いませんから、わたくしのことは……そうですわね、『かつら』とでも呼んで下さい。


 女性――桂はそう前置きした。


「枯木先生は、十五夜に盗み食いをしたことがおありになります?」


 十五夜、月が満ちる夜。

 この日は月見団子を用意して、ススキの穂や秋の草花を飾って月をまつる。また、地域によっては、きぬかつぎ――茹でて皮を剥いた里芋をお供えすることから、十五夜を「芋名月」と呼ぶところもある。

 そんな十五夜のお供え物の団子や里芋を、『既婚女性が盗み食いすると子を授かる』という言い伝えがある。

 十五夜の満月が、妊娠中の丸い腹を連想させるからだ。細い月が満ちて丸い満月になるように、人々は女性の腹が子を孕んで丸くなることを願った。

 そこから、満月をまつる十五夜の夜に、お供え物を食べることは縁起の良いこととして推奨された。『子供に盗み食いされるほどよい』、『家族でお供えを食べると幸福になる』なんて言い伝えもあるくらいだ。

 これらは、神に供えたものを下げて食べることで、神との結びつきを強めようという「共食」の発想から来るものだ。盗み食いをすれば、神に供えた食べ物の力を体内に取り込むことができる――


 十五夜の団子や里芋は、神の力が宿った食べ物。


「私、どうしても子を欲しかったんですの」


 桂は言う。


「だから、はしたないとは思いましたけれど……十五夜の晩、あるお宅の団子を盗んで食べたのですわ。そうしたら、ほら――」


 桂は張り出たお腹を見せた。


「こうして子を授かりましたのよ」

「それはめでたいことです」


 先生がそつなく返すと、桂は嬉しそうに微笑む。しかし、すぐに瞳に愁いの色を浮かべた。


「なのに、夫も、皆も、信じてくれませんの。ただの妄想だと言って……」

「おや」

「でも、先生なら信じて下さると思って、私、ここに参りましたの。十五夜に盗み食いすると、どんな女性でも子を孕むことができるのですわ」

「ほお、それはそれは……」

「あとふた月も経てば、私の子が産まれます。……ああ、早くあの人にお見せしたいわ……」


 桂の話は、そこまでだった。


「生まれたら、きっと先生にもお見せしますわ」


 どこかすっきりとした、愁いの無くなった顔で応接間を出て行く。スミは玄関まで彼女を見送って、応接間に戻った。

 二個目の大福をちょうど口に放り込んだ先生は、咀嚼してごくりと飲み込む。冷めた茶を飲みほして、ぷはぁと息を吐いた。


「いやぁ、やっと目が覚めた」

「やけに口数が少ないと思ったら……まさか寝ていたのですか?」

「やだなぁスミちゃん、起きてたよ。少し眠たかっただけさ」


 先生はさらっと返した。


「それにしても、なかなか面白い話だったねえ」

「そうですか?」


 桂はああ言ってはいたが、『十五夜に団子を盗み食いすると子を授かる』というのはただの迷信だ。子を授かったのはよいことだが、たまたま時機が重なっただけではないだろうか。

 特別、不思議でも奇妙な話でもないと思うが――。


 スミが首を傾げていると、玄関の方から「ごめん下さい」と声がする。


「はぁい」


 スミはぱたぱたと玄関へ向かう。

 そこにいたのは、一人の男性だ。三十代半ばくらいか。立派な着物を着ている。どこかの大店の若旦那みたいな雰囲気の人だ。


「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか?」

「……先ほど、妻がこちらに見えたかと思うのですが」

「妻……?」


 ひょっとして先ほどの女性、桂のことだろうか。

 スミが答える前に、後ろからひょいっと先生が顔を出した。


「桂さんのことでしょうか?」

「桂? ……ああ、妻はそう名乗ったのですか」


 男は苦い笑みを見せる。


「ええ……『桂』は、私の妻です」



 桂の夫という男を、先生は家に上げた。

 桂が座っていた籐椅子に、夫もまた座って話し出す。


「……最初にはっきり申し上げておきます。妻は妊娠しておりません」

「え?」


 スミはきょとんと桂の夫を見やる。


「本当です。その……妻は、子の産めぬ身体でして……」


 以前、病に罹り、子供ができなくなったのだという。


「……昨年から、妻は様子がおかしかったのです」


 桂の夫は、スミが思った通り、老舗の跡取り息子であった。桂と結婚したのは五年も前で、次の跡継ぎをと望まれていた折に、桂の不妊が発覚した。

 事情を知った大旦那や女将は、離縁して新しい嫁をと進言したが、桂を愛していた夫は断った。そして代わりに、別の女性に密やかに跡継ぎを産ませることになったという。

 妾の女性と夫の間には、すぐに子供ができた。ふた月後には産まれる予定だそうだ。


「……実は、その妾の家に、妻が一度訪ねてきたそうで」


 ちょうど、十五夜の晩であった。

 郊外に一軒家を借りて、ひっそりと暮らしていた妾の元に、いきなり桂が現れた。

 本妻の登場に驚く妾をよそに、桂はにこにこと笑顔で家に上がり込んだ。そして縁側に置かれていた供え物の団子を見つけると、目を爛々と輝かせた。

 言葉通りに飛びつくと、桂は手づかみで団子をむさぼった。


『ああ、これで私も子を孕めるわ』

『私が産むの。私の子よ。私とあの人の子よ』


 輝く満月を見上げ、桂は口に押し込んだ団子の欠片をぼろぼろと零しながら、ぶつぶつと言う。

 常軌を逸した彼女の行動に、妾は腰を抜かしたものだ。


 それからである。

 桂の腹は、少しずつ膨れていった。まるで腹に赤子ができているかのように。


『これは一体、どういうことだ?』


 困惑したのは大旦那や女将だけでない。夫が一番驚いた。

 桂に問い質しても、『どうして喜んで下さらないの?』『ようやくあなたの子が生まれるのよ』と悲し気に泣くばかりだ。

 妾の腹が膨れるように、桂の腹も膨れていく。

 月が満ちるように、桂の腹は大きくなる。

 幾度も医者に見せたが、原因は分からない。そこに赤子がいるのかすらも。


 彼女の腹に宿っているものは、一体何なのか――


「十五夜の満月のおかげだと妻は言っておりますが……」


 桂は子ができたことを自慢したいようで、会う人会う人に『十五夜の団子を盗み食いして孕んだ』と迷信を話した。


「……妻は、子ができないことをずっと悩んでいたのです。妾のことを説明した時も、ひどく取り乱しておりました。これ以上、妻を否定して傷付けるのも忍びなく……」


 夫は妻の言動に戸惑いながらも、受け入れるしかなかった。

 両手で顔を覆って項垂れる男の肩を、先生は宥めるように軽く叩いた。




 桂の夫が去った後、先生は椅子の背にもたれて天井を見上げる。


「どんな女性でも孕むことができると言っていたけれど……こういう意味だったんだねぇ」

「あの……桂さんは本当に妊娠しているのではないですか? お医者様の見立てが違っただけとか」

「そうだといいねぇ……」


 言いつつも、先生は天井の向こう、まるで遠い空を見ているような目をする。


「……知っているかい、スミちゃん。月にはうさぎが棲んでいるんだよ」

「兎ですか?」


 たしかに、月で兎が餅を搗いているだとか、薬を作っているだとか、そういう昔話は聞いたことがある。兎は月の象徴であり、月の異名の一つに『玉兎』とあるくらいだ。

 でも、なぜ急に兎が出てくるのか。

 きょとんとするスミに、先生は言葉を続ける。


「中国の博物誌だったかな、こんな言葉があるんだ。『兎、月を望んで孕み、口中より子を吐く』……兎は繁殖能力が高く、子孫繁栄のシンボルでもあるからね」


 月を見上げるだけで、子を孕む兎。

 団子を貪りながら、月を見上げていた桂。


 ……そういえば、『桂』というのも『月』の異名だ。月に桂の木が生えているという伝説から来ている。


 先生は目を閉じて、小さく呟く。


「桂さんは一体、どんな子を生むのだろうねぇ……」


 先生の目に、桂はどう映っていたのだろう。腹の子は、どう見えていたのだろう。

 尋ねることができぬまま、スミもまた、見えない空を、月を見上げた。


 その後、桂やその夫が先生の前に姿を現すことは無く、話の真偽はついぞ知れることは無かった。


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