其の二十 墓花
その日は、大学の講師の日であった。
青葉は文筆業の傍ら、私立大学の語学の講師をしている。週に一度、外国文学の講義を行っているのだ。
学生からの評判は良いようで、最初は一年だけという話だったのだが、今年で三年目になる。おかげで、毎月収入を得ることができていた。
今日はちょっと奮発して、スミちゃんにおいしいものを買っていこうか。キャラメルもいいけれど、偶には金平糖はどうだろうか。
思い立ったが吉日と、青葉は女性に人気のある菓子屋へと向かう。
店内で色とりどりの菓子を物色する青葉に、店員や客の女性達がちらちらと視線を向ける。
青葉は大学に行く時は洋装だ。鬼頭ほどではないが背が高く肩幅もあり、手足が長いおかげで洋装姿が様になっていた。見目麗しい顔立ちの青葉は、活動写真から出てきた役者のようでもあり、うっとりと頬を染める者までいた。
しかし青葉は視線に頓着することなく、ガラス瓶に入った金平糖を購入して店を出る。
スミちゃんは喜ぶだろうか、今日の夕飯は何だろうか。
わくわくとしながら土手を歩いていた時である。
前方から、一人の若い婦人が歩いてきた。日本髪を結い、痩せた身体に擦り切れた綿の着物を纏っている。
思わず目を向けてしまったのは、彼女が赤い花束を抱えていたからだ。
それは、真っ赤な彼岸花であった。
緑のまっすぐな茎に、火花や炎を思わせる赤い花弁。曼珠沙華とも呼ばれる花だ。
赤子を抱くように両腕に彼岸花を抱えた彼女は、青葉に軽く会釈して通り過ぎる。その際、花束から一本、彼岸花が零れ落ちた。
女性は気づいていないようで、草鞋を地面に擦りながら歩き去ろうとする。
「もし、落としましたよ」
青葉は落ちた彼岸花を拾い、声を掛けた。女性はゆっくりとした動きで振り返り、どこか夢から醒めたような目で青葉を見た。
「あら……すみません」
青葉は彼女に近づいて、はぐれた一本の彼岸花を花束の中に戻す。
「見事な彼岸花ですね」
「ええ……そうでしょう」
女性は柔らかく微笑んで、花束を抱え直す。一斉に揺れる赤い花弁は目にも鮮やかだ。
彼岸花は九月から見ごろを迎える秋の花だが、十一月に足を踏み入れようとしている今ではあまり見かけない。
「今の時期にこれだけ咲いているのも珍しい」
「そうね。これで最後になるわ」
「最後?」
「ええ。主人の墓に咲いていたものです」
墓。
女性の言葉に青葉は引っ掛かる。
墓参りに行って花を供えたわけではなく、墓から摘んできたのだと分かったからだ。
***
彼岸花は、墓地でよく見る花だ。
これは人為的に植えられたと言われている。土葬後、死体がモグラなどの動物によって掘り返されるのを防ぐためである。
彼岸花の球根には毒が含まれており、この毒を嫌って、モグラなどの動物が近づかなくなるからだ。墓だけでなく、土手や田畑の周辺でよく見られるのもそのためだ。
墓を守ってくれる美しい花であるが、その鮮やかな見た目や咲く場所のせいか、多くの人に不気味に思われていることもたしかだ。
秋の彼岸頃に、いつの間にか緑の長い茎を伸ばして赤い花を一斉に咲かせる。彼岸の頃に墓地にいきなり現れる赤い花――それゆえ『彼岸花』の名が付いた。
あるいは、食べれば毒のせいで『彼岸』=『あの世』に行くからという説もある。『死人花』や『地獄花』、『墓花』、『幽霊花』という別名もついた。見た目から剃刀を連想させて『剃刀花』『狐の剃刀』……と、彼岸花の別名は地方名や方言も合わせれば、実に千を超えるそうだ。
また、花にまつわる迷信も多い。
炎が燃え盛るように真っ赤に咲く姿は火を思わせたため、「彼岸花を家に持ち帰ると火事が起こる」といわれた。『火事花』という別名も付き、家の敷地に彼岸花を植えることを避けられた。
「彼岸花を触ると手が腐る」は、彼岸花に含まれる毒のせいで手がかぶれたりすることからきたのであろう。そして、墓地にあることから「彼岸花の傍で寝ると死ぬ」「彼岸花は人の血を吸って成長する」なんていう迷信まである。
そして、「彼岸花を摘むと死人が出る」ともいわれていた。
これは彼岸花を摘むことで動物たちが墓を荒らし、それで掘り起こされた死体が地上に出ることでいわれるようになったそうだが……。
***
「……」
青葉が何とも言えずにいる中、婦人は大事そうに彼岸花を抱え直す。
花に手を添える婦人の指先は、土で汚れていた。同時に、赤くひび割れて、ひどく荒れているのが分かった。
「主人といっても、前の主人です。三年前に亡くなって、私、今は別の家に出されたので……」
ざあっと、土手を撫でるように風が吹く。
彼岸花が飛ばないようにするためか、婦人の指先に力が籠った。
「……皆、ひどいのよ。私、あの人以外の男に嫁ぎたくないと何度も言ったのに。両親は体裁が悪いからと実家から追い出して、あんな、年寄りの家に嫁がせるなんて。
……私で四人目らしいわ、再婚の相手は。もう、嫁というよりも、使用人の扱いだけど……」
ぎり、ぎり。
彼岸花の茎に、婦人の荒れた爪先が食い込む様子が、やけにはっきりと見えた。
「……あの人が、いっそ生き返ってくれればいいのだけど」
だから彼岸花を摘んだのだろうか。だが、それで出てくるのは結局死人だ。埋められた夫が掘り返されるだけである。
婦人は土手のはるか向こうをぼうっと見ながら、「でも、無理だものね」と分かっているように呟く。
土手を吹く風が、一層強くなった。
「だから――」
婦人の言葉は最後まで聞き取れなかった。青葉が強い風に目を閉じ、開いた時にはすでに婦人は背を向けて歩き始めている。
「あ……」
待って下さい、と咄嗟に呼び止められなかった。
――近くで見た彼女の手は、爪に土が入り込むくらいまで汚れていた。
花を摘むだけなら、あそこまで汚れない。
そう、例えば、鱗茎を取るために土を掘り返したのなら――。
毒が含まれた鱗茎。
荒れた指先。やつれた表情。
まさか、と彼女を引き止めようとしたが、すべて青葉の推測に過ぎない。
そもそも彼岸花の鱗茎は、かつて非常食にされていたと聞く。水によくさらせば毒が抜け、食べられるようになるのだ。
口にしたからといって、すぐに死ぬようなものでもない。だが、もし食べた相手が高齢だったら、危ういかもしれない――。
青葉が逡巡している間に後ろ姿は遠ざかり、すっかり日が落ちるのが早くなった夕暮れの闇に、溶け込むように消えてしまった。
追いかけることもできただろうが、青葉は中途半端に伸ばした手を降ろした。
……帰ろう。自分はただ見えるだけで、何もできないのだから。
傾いた日に、青葉の影が長く伸びる。夏よりも光は弱くなったのに、赤い夕陽に照らされた影は濃く、薄暗い中でより闇を深く見せた。




