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青葉闇奇談  作者: 黒崎リク
夏の章
2/29

其の一 親谷参り


 訪れたのは、痩せた青年だった。

 くたびれた洋シャツもズボンもぶかぶかで、骨の浮いた身体が服の中を泳いでいるように見えた。

 握り飯をこさえてやろうかしら、とスミは先に立って案内しながら思う。

 それとも、先生用お菓子棚(食器棚の右上にある)に常備している、栄養価の高いカステラでも出そうか。食べたら少しは元気が出るかしらと、そう気の毒に思うくらい、彼は具合が悪そうに見えた。


「やあやあ、いらっしゃい! よく来てくれたね」


 先生は客の様子には無頓着で、どかりと籐椅子に座った。

 ここは、居間を衝立で仕切って作った、簡易応接間である。普段は縁側に置いている籐椅子を運び込み、先生が以前どこかからもらってきた西洋の小さなテーブルを置いた。

 ちなみに、最初は書斎を応接間代わりにしようとスミは考えていたのだが、何しろ汚かった。

 二日に一度は綺麗に掃除するのに、先生は一日も経たないうちに、足の踏み場もないほど散らかしてしまう。あの部屋に他人を入れるのは、家事を任されているスミが耐えられない。まだ居間の方がましだ。

 それっぽい雰囲気になった応接間の、もう一つの籐椅子に、客はおずおずと座る。


「あの……あなたが、枯木先生ですか?」

「いかにも、僕が枯木青葉だ。こっちはスミちゃんだよ」


 なぜかスミのことまで紹介する先生は、上機嫌だ。

 先週、新聞に広告を載せて、ようやく来た一人目のお客さんだからだろう。奇妙な話を語ってくれる、先生の貴重な飯のタネである。

 先生は揉み手をして、ぐいっと身を乗り出した。


「君は電話してくれた飯島君だったな。さあ、ぜひとも聞かせてくれまいか!」


 食い気味の先生に、青年――飯島は押されつつも、訥々と語り始めた。


「先生は……“オヤダニマイリ”という風習をご存じでしょうか?」




***




 飯島は、K県にある山深い村の出身であった。

 村は親谷おやだにと呼ばれる地域にあり、昔からある風習が伝わっていた。それがオヤダニマイリ――『親谷参り』である。

 この地域には、親谷山おやだにやまと呼ばれる大きな山がある。

 親谷山は、先祖の霊が集まる山と伝えられている。先祖――『親』が集まる谷で『親谷』と呼ばれるようになったとか、あるいは、皆から畏れられる、うやまわれる――「ウヤ」が「オヤ」に転じて『オヤダニ』になったとか。そんな由来のある山だという。


 ここに暮らす人々は、死者の霊は親谷山に向かうと考えていた。

 人が死ぬと、近親者は死者の霊を家から送り出すため、共に親谷山に向かい、亡くなった人が極楽浄土に行けるよう祈願する。これが『親谷参り』だ。


 親谷参りは、近親者の死後三日目に行われる。

 まず、死者と血縁の濃い者が、四名や六名など、偶数の人数で集まる。奇数だと、余ったひとりに死者の霊がついてしまうと言われているからだ。

 そして、死者が生前身に着けていた衣類や遺髪、位牌などを持参し、山にある寺に向けて出発する。この時「親谷へ参るぞ」と声を掛け、まるで人を背負うような格好をして親谷山へ登る。山寺の奥にある洞窟に遺品や位牌を納めた後、寺に供養をお願いして、本堂や大師堂にお参りして家路につくのだ。

 

「――亡くなったのは、僕の従姉です」


 飯島の三つ年上の従姉は、名を加枝かえと言った。

 加枝は二十七で亡くなった。山菜を取りに山に入り、足を滑らせて転んだ時、運悪く簪が首を貫いたのだという。

 幼い子供を三人残した、加枝の早すぎる死に、家族は悲嘆にくれた。

 悲しみのなか葬儀は粛々と済み、三日後に親谷参りが行われることになった。

飯島の故郷の村では、親谷参りは男が行くことになっている。加枝の夫、父、兄、二人の弟、そして数合わせのために飯島が呼ばれた。


「親谷へ参るぞ」


 加枝の夫が家の前で声を上げて、背負う格好をする。

 これで山の上の寺まで向かうのだが、途中、背負うのを六人で交代して運ぶ。もちろん、霊を背負えるわけがないので格好だけだ。

 木が茂る山の中は、昼間だと言うのに薄暗い。

 辺りはじめじめとして苔むし、時折鳥や獣の声が響く。草鞋の下で潰れたのか、草葉の青臭い匂いがした。

 皆が無言で歩く中、飯島の番が来た。

 加枝の弟から、死者の霊を受け取るふりをした時だった。


 飯島は、背中にずしりとした重みを感じた。

 何もいないはずの背に、誰かが乗っている。

 それだけではない。首に、見えない腕がするりと回った。背負うふりをする己の腕に、むっちりとした太腿の感触がして、飯島はぎょっとした。

 ふう、と誰かが首の後ろで息を吐く。

 腐る寸前まで熟した、甘く噎せるような匂いがした。


 飯島の背に冷や汗が流れる。立ち止まった飯島に、親族は訝し気な視線を向けた。


「どうしたんだ、直也君」


 加枝の夫が尋ねてくる。


「な……何でもありません」


 飯島は唾を飲み込んで、乾いた声を返して歩き始める。

 首に掛かる息が、近くなる。背中に柔らかい乳房が押し付けられて、首に回る腕に力が籠った。

 生白い太腿が、馴染みのある感触が、見えないのにそこにあるのを感じる。くすくすと甘く笑う声が蘇る。


 ――加枝ねえさんだ。


 飯島の背にいるのは、亡き加枝だとわかった。

 甘く腐った匂いが、飯島を包んでいた。

 しばらく歩いて、加枝の夫に交代することになった時、背中の重みがふっと消える。


 しかし、飯島にまとわりついた匂いは寺に着いても、遺品や位牌を洞窟に納めた後も、ずっと残っていた。




***




「……匂いが消えないんです」


 飯島は項垂れた。


「加枝ねえさんの匂いが……加枝さんが、ずっと僕の側にいるような気がしてなりません」


 飯島が自分の腕を擦った。ぶかぶかのシャツは、どこか据えた匂いを纏わせている。


「先生、僕はどうすれば……」

「ここは相談所ではないのだけれどねぇ」


 先生は苦笑する。

 たしかに、広告にも出していた通り、本来なら話を聞くだけだ。しかし先生は気の毒に思ったのだろう。


「うーん……側にいるのなら、返しにいけばいいんじゃないのかな?」

「……返しに?」

「そう。だって、君の側に死者の霊がいるということは、親谷参りがちゃんと済んでいなかったのだろう? だったら、もう一度行えばいい」


 先生の提案に、飯島は目を瞠る。


「ですが……もう親谷参りは終わって……」

「親族の皆に事情を話すしかないねぇ。死者の霊は本来なら山へと引き寄せられるはずだろう。君のそばにいるということは、何かしら理由があるのかもしれないけど」


 先生は、じっと飯島を見つめる。


「……」


 飯島はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……わかりました」


 ぼそぼそと告げて、スミが出したお茶やカステラには目もくれずに部屋を出て行く。


「あ、飯島さん……」

「いいんだよ、スミちゃん。帰しておやり」


 先生は立ち上がり、珍しく客人を玄関まで見送った。スミも先生の後ろに立って飯島を見送る。

 玄関の引き戸に手を掛けた飯島に、先生は思い出したように言った。


「飯島君、くれぐれも一人で行ってはいけないよ。余ったひとりに、霊はつくのだからね。必ず偶数で、誰かにちゃんと話して一緒に行ってもらいなさい。でないと、今度こそ、君は離れられなくなるよ」


 先生の言葉に、飯島は答えずにただ会釈して、出て行ってしまった。


「まあ、挨拶も無しだなんて」


 失礼なお客人だこと、とスミは眉を顰める。


「まあまあスミちゃん、仕方ないよ。……十中八九、飯島君は、亡くなった従姉の加枝さんと何か関係していたのだろうからね。でなければ、顔も見らずに、匂いや太腿の感触だけで本人だとわかるはずないもの」


 はたして加枝が亡くなったのは、本当に山で足を滑らせたからなのか――。


「……警察に」

「無駄だよ。何の証拠も無いからねぇ」


 先生は大きく息を吐いて、額を押さえた。顔色が悪い。

 スミは先生の身体を支えて、居間に戻りながら尋ねる。


「……何か見えたんですか?」

「ん? そうだねぇ、ちょっとばかし、強烈だったかなあ」


 先生は苦笑して、今しがた飯島が出て行った玄関を振り向いて見やる。


「……飯島君の背に、女の人がしがみついていたんだもの。首に白い腕を回して、剥き出しの太腿で腰をしっかり挟んで……うん、たしかにむっちりとしたいい腿だったなぁ」

破廉恥はれんちですよ、先生」

「ああ、ごめん……っと」


 先生は籐椅子に腰かけて、テーブルに残された茶を呷り、カステラを頬張る。茶のお代わりを注いで渡した時には、少し顔色も戻っていた。


「ふう、生き返る。ありがとね、スミちゃん」

「……私には、何にも見えませんでした」

「いいよ。あんなものは、見えない方がいいに決まっている」


 人には見えないものを見る先生は、そう言ってにこりと微笑んだ。



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