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青葉闇奇談  作者: 黒崎リク
秋の章
15/29

其の十二 猿腕


 奇妙な客であった。


 痩せた小柄な男だ。背中が丸まっているから、余計に小さく見えるのかもしれない。

 やけに大きな背広を着ており、ぶかぶかの袖が両の手の先まですっぽりと覆っていた。

 今日は誰々が来るとは、先生から聞いていない。急な客にはすっかり慣れたものだが、今日の客の風体に、スミは思わず不躾に見てしまっていた。


 なんというか、大きな袖に隠れた腕が、妙に気になってしまったのだ。


「すみません、枯木先生はご在宅でしょうか?」


 少し訛った響きの声にスミは我に返り、「はい。少々お待ちくださいませ」と急いで書斎に向かう。


「先生、お客様が来られました」

「ふぁーい……」


 いつものごとく居眠りしていたらしく、先生の頬には丸く赤い跡がついている。

 これは頬杖をついて寝ていたせいであろう。ちなみに、机に突っ伏して寝た場合は、原稿と机の境目の、線のような跡が付くことが多い。

 いつもよりはちゃんと起きているようで、先生は自分で襟元を直し、帯を締め直すために外した。


「うーん……スミちゃん、居間の方に通しておいて……」

「かしこまりました」


 さっそく客を居間に通した後、再度書斎を覗けば、先生は身支度を終えていた。柔らかな長い髪を一つに結った先生に、スミは声を掛ける。


「それじゃあ、お茶の支度をしてきます」

「うん、よろしく。今日のお菓子は?」

「カルメラ焼きを作ろうと思っていたのですが……」


 少し時間が掛かるうえ、材料が少なく節約できるからと考えていたものであり、お客様向きではない。

 今日は別のものを、と言いかけたスミだったが、先生の目がきらきらと輝いている。


「カルメラ焼き! いいねえ、久しぶりだ」

「ですが、時間もかかりますし、お客様に出すのは……」

「大丈夫、大丈夫。話が長くなるかもしれないし、出来立てのカルメラ焼きはどんな菓子より美味しいもの!」


 うふふ、楽しみだなぁ、と口元を緩めた先生は、小躍りしそうな足取りで居間に向かう。

 上機嫌な先生に若干不安を覚えつつ、スミは台所に向かった。




 卵白に重曹を少しずつ加えて溶いたものを用意しておいて、お玉にザラメ糖と水を少し入れる。お玉をガスコンロの火にかけて、ザラメと水を箸で絶えず混ぜる。やがてザラメが溶けて、ぶくぶくと沸騰して、大きな泡でいっぱいになる。これが細かい泡になったら、お玉を火から静かに下ろす。


「いち、にぃ、さん、……」


 じゅう、と数えた後、卵白に練り込んだ重曹を箸の先に豆粒ほどつけて、これで素早く、激しく液体をかき混ぜる。

 そうすると、次第に中心から膨らみ始めるので、そっと箸を引き抜いて待つ。お玉の上で山のように膨らんで固まったら、もう一度お玉を火にかけて少し温めて、そっと外す。


「……よしっ」


 焦げも無く、ムラも無く、いっとう綺麗に膨らんだものができて、スミは思わず声を出した。

 幼い頃はよく失敗していたカルメラ焼きだが、今ではすっかり手慣れたものだ。

 どうして砂糖と水と重曹でこんなに膨らむのか、いまだによく分かっていない。でも、さくさくとして口の中で溶け、ほんのり甘く温かいおやつは、食べるのもいいし、作るのも楽しい。それでいいじゃないか、とスミはどこか達観した気分になる。

 つい集中してしまっていたが、スミは時計を見てはっとする。急いで形のきれいなものを皿に盛り、早足で応接間に向かった。

 すると、応接間の障子が思いきり開かれる。


「――せっかく来てやったのに、なんて奴だ!!」


 憤慨した小柄な男が肩を怒らして、応接間から出てきた。

 あまりの勢いにびっくりして立ち止まったスミに気づいた男は、ふんと鼻を鳴らして背を向ける。荒い足取りで玄関に向かう男に呆気に取られていると、応接間から声が掛かった。


「放っといていいよ」

「で、ですが……」


 スミがせめて見送りに、と思った時には、玄関の格子戸がバンッと大きな音を立てて閉まった。


「どうしましょう……」


 茶菓子を出すのが遅すぎたせいだろうか。

 客をもてなせなかった、とスミが反省していると、応接間にいた先生が苦笑する気配が伝わってきた。


「スミちゃんのせいじゃないよ。とりあえず、こちらにおいで。せっかくだからお茶にしようよ」


 先生はいつも通りの、のんびりとした物言いでスミを手招く。気を取り直したスミは、お盆を抱えて応接間……もう客もいないので、居間となった室内に入る。

 香ばしさを纏わせた柔らかな飴色の、大きく膨らんだカルメラ焼きに、先生はいかにも嬉しそうに微笑んだ。


「いただきます」


 さっそく一つ、あっという間に食べた先生に、スミは尋ねる。


「あの……いったい何があったんです? あの方、どうしてあんなに怒っていらしたのですか?」

「ん? んー……」


 先生は、口の周りについた小さなカルメラの欠片を指先で取りながら答える。


「だってねぇ、あんまり勿体ぶるから。なんか、嫌になっちゃってね」

「もったいぶる?」

「そう。スミちゃん、『猿腕』って知ってるかい?」



 ――とある地方に伝わる話である。

 女が、男の帯をたすきにすると、『猿腕』を持つ子が産まれるという。

 男の帯というものは、女には呪力があるらしく、それを常用することでいみの害があると考えられたそうだ。



「もっとも、この猿腕、どんなものかというのは知られていないんだよ。名前が良くないから、女性達も警戒して、男の帯を襷にはしないようにする。だから、実際に猿腕を見た者はいない。ところが、先ほどの客、どうやら猿腕を持っているらしくてね」


 小柄な体躯に、大きな背広。袖にすっぽりと隠された腕。


「彼は、僕にこう言ってきたのさ。


『先生、見たくありませんか?』

『誰も見たことのない猿腕ですよ』

『奇妙でしょう、怖いでしょう。どうです、見たいですか?』

『見たいでしょう、知りたいでしょう』

『教えてあげましょうか。見たいとおっしゃいよ、ほら』


 にやにや笑いながら、そう言ってくるものだからね」


 先生は指に付いたカルメラ焼きの欠片を行儀悪く舐めて、きゅっと目を細めた。


「僕はたまに、あまのじゃくな気分になる。だからついつい、『じゃあ見なくて結構です』と返してしまって。それでお客は怒って帰ったわけさ」


 だから全然スミちゃんのせいじゃない、と繰り返した先生は、次のカルメラ焼きに手を伸ばす。


「先生、よかったんですか? 奇妙な話を聞き集めているのに……」

「ああ、別にいいよ。僕は、すべてを聞きたいわけでもないし、見たいわけでもないもの」


 カルメラ焼きをさくさくと、またすぐに一個食べきった先生は、口の端に欠片を点けたまま微笑んだ。


「知らないものは知らないままの方がいい時もある。誰も見たことのないものは、誰かが見てしまったら、それはきっとつまらなくなってしまう。『猿腕』を誰も知らないからこそ、奇妙で不思議なものになるんじゃないかな」


 それにね、と先生はカルメラ焼きを指さした。


「もったいぶってしまうと、機会を逃すからね。おいしいものはおいしいときに。ほら、スミちゃんもどうぞ」


 促されて、スミもカルメラ焼きを手に取った。端を小さく齧れば、香ばしさと甘さが口の中に広がる。


 ……猿腕。一体どんな腕なのだろう。

 猿のように毛むくじゃらの手か。あるいは長く細く、湾曲した腕だろうか。


 カルメラ焼きは口の中ですぐに溶けて無くなってしまうが、猿腕の謎は残ったまま。


 奇妙な話は、こうして人の中に残っていくのだろう。


 知らないからこそ。

 見なかったからこそ。


 余計に強く、人の心の端っこに残り、伝わっていくのかもしれない。


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