背中の月
「朝まで帰ってこないから。じゃあね」
玄関から母の声が聞こえた。
沈黙の空間の中、漂う忙しない声に
まだ小3だった僕は、寂しさと底知れぬ不安を
抱いていた。
夜の10時をまわる頃、母はその日仕事に出かけていく。
アパートの階段を降りてゆく靴の音が遠ざかる前に、
リビングにいたぼくはベランダから見える母の車を眺めに行った。
すると、車に乗り込みエンジンのかぎを入れ、
仕事へ向かおうとする母がいた。
もう、母は行ってしまう。夜の向こうに。
ぼくは、魔法が解けたように脱力して
静かにそれを眺めていた。
「またひとりだ・・・」
誰もいないリビングに帰ってつぶやく。
寂しい気持ちから、点いていたテレビを見た。
やっていたのは、賑やかなバラエティー番組だった。だけど、ぼくは賑やかなはずのテレビの声が
とっても遠くにある世界で鳴っているように聞こえた。
テレビの画面の光に、吸い込まれるように
ボーッとしていると
キッチンの水道の
ぽちゃっ、と零れる音がして、我に帰った。
「だれかそこにいるの」
急に、自分の部屋の方から、自分ではない
誰かの声が、した。
テレビの音が、自然と味方するように聞こえ出し
ぼくは、なんとなく使命感を持って
自分の部屋のドアを開けようとした。
ギィィィー、と鈍い音を立てながら
ドアを少しずつ、恐る恐る開いていくと
暗闇の中で、まず白いカーテンがちらついて見える。
「...ねぇ、だれかいるなら出てきてよ、怖いよ」
自分の恐怖した心を安らげるため、とっさに
そう声にした。
白いカーテンを照らす、月あかりは見事に頼りなく、
後ろを振り返ったとたん、何かが出てきそうな雰囲気を感じ
ぼくはすぐさま、部屋の電気を点けようとした。
しかし、部屋のスイッチをいれようとした途端、
何故か、気づくと
ぼくは真っ暗になったリビングのソファに座っていた。
その向かいの椅子には、魔女という名前がふさわしい白婆が立ちふさがっていた。
白婆は、怪しくも優しい口調で言ってきた。
「わたしが こわいと 思うかね?」
恐怖を感じているのにもかかわらず、
ぼくの口は
「想像よりは怖くないです」と
言い放つ。
それは恐怖を静めたいから、という思いと
目の前の白婆に対して、つとめてフレンドリーで
いなければ、という子供ながらの気遣いだった。
白婆は冷静になって
「まあ、そうじゃろ」
そう語りかける。
ぼくは目の前にいる奇妙な白婆に、
「なにがなんだか分からないです」と答えると、
優しく頷いたまま、僕の方を見てきた。
「ぼうや、君の心にはいっつもお母さんがいる。
それがあんたの優しさだな。」
そう、魔女のようにとんがった帽子を被った
白婆は、ぼくに優しくうながしてきた。
その姿は、どことなく近所の優しいおばあさん、というオーラだった。
涙でいっぱいになっていた自身の瞳にぼくが気づくと
その白婆は、魔法のようにきえさった。
「おばあちゃん」
ぼくは、静かに、暗闇の中でつぶやく。
涙でいっぱいになった部屋の空間は、
しだいにもやもやと霧が立ち込め、
気を失うように、かなしく睡魔に襲われていった。
「...。」
重い瞼が、開いていくと
やわらかな、母の腕に抱かれていたぼく。
「どうしたの。寝てるうちに泣いて。」
「おかあさん、仕事から帰ってきたの?」
「これから行ってくるね。朝まで帰ってこないけどね。」
その母の言葉を聞いて、
ぼくは、窓の向こうの月にいるはずの
魔女のことを、想って泣いた。