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『カタワラ』  作者: Yoi
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エピローグ

「ねえ、ちょっと、どこ連れてくの」

車の中でアイマスクをつけられた眞菜がうれしそうに声を上げた。


「また倒れたって知らないよ!」

「心配すんな」運転席の徹さんが言った。「優秀な担当医が二人も付いてる」

「……ぼくは医者じゃないですよ」賢治が言った。

「眞菜の専属医だ」徹さんは眼尻にいっぱいしわを寄せて笑った。

「この間の森での処置は、みごとだったぞ」


あれをやらなきゃ、眞菜はとっくに死んでたかもな。

徹さんはよほど上機嫌なのか、思わず、そんな物騒なことを言ったので、アイマスクの下の眞菜の口元が、風船のように膨れた。

「……医者にあるまじき、デリカシーのなさ」

眞菜はそう言って、見えないはずの窓の向こうを見るように、顔をそむけた。


車はやがて、どこかの場所についた。

賢治は眞菜にあの例のガスマスクをかぶせ、彼女の手を引いて足早に建物の中に駆けこんだ。

玄関先で、彼女の体にわずかについた花粉を念入りに取り除くと、そのまま建物の奥に入った。


「……やっときたあ」

ガラガラと扉を開ける音がして、聞き覚えのある声が眞菜の耳に入った。

「この声、聞き覚えがある……、瀬希?」

瀬希はうれしさに小さな体をいっぱいに伸ばして、ひとみをらんらんと輝かせた。


「マナマナ!ひっさしぶりい!中学校以来だね!」

見えもしないのに、瀬希は眞菜の顔の前で手を振った。

「早く、瀬希の顔が見たいんだけど」眞菜が言った。「……まだ、とっちゃダメ?」


「もう、いいよ」賢治が言った。

眞菜は恐る恐る、アイマスクを取った。

そして、はっと、息をのんだ。


目の前にあったのは、大きな柳のように流れる、枝垂桜だった。

そこは、かつて彼らの学んだ、小学校の理科室だった。窓も大きく、枝垂桜にも近いこの場所は、彼らが“花見”をするにはうってつけの場所だった。土日の連休中で、小学校に他の児童の姿はなかった。彼らは、その日当直だった知り合いの先生に頼んで、少しの間、ここへ入れてもらったのだった。


賢治と瀬希は、あらかじめこの部屋をきれいに清掃し、眞菜の家から持ってきた空気清浄機をかけっぱなしにして、昨日から準備していたのだった。


桜は、理科室の大きな窓いっぱいに、桃色の花をつけた枝を揺らしていた。そよ風が吹くと、その枝先から、零れ落ちる滴のように、花びらが舞い散った。


明かりを消した薄暗い理科室の窓から見えるその光景は、さながら、スクリーンに映る映画のワンシーンように、眩しく彼らの瞳に焼き付けられた。


「……満足した?」

眞菜の隣に立った瀬希が、下の方から、眞菜の顔を覗き込んだ。

「……ええ」

眞菜は涙をいっぱいにためた目で、その光景を見つめていた。

賢治はそれを見て、うれしそうに微笑んだ。


「……なんか、こうしてると、思い出すね」

瀬希が言った。

「小学校の時、みんなで、あの桜の下で、お花見、やったっけね」

「……あの時、一緒にいたのは、瀬希だったっけ」

眞菜が言った。


「もしかして、忘れてたの?」

瀬希があぜんとした顔で眞菜を見つめた。

「……ひどいよ、マナマナ……」


「そういえば、桜に気を取られて、ちゃんと見てなかったけど、」

眞菜がじっと瀬希の顔を見た。

「……ずい分、大人っぽくなって……、“きれい”になったんじゃない?瀬希」

瀬希の顔がみるみる喜びに満ちた。彼女は思わず、眞菜に抱きついた、小柄な彼女が抱きついても、肩ほどまでも頭が届かなかった。……親にじゃれる、子供みたいだな。脇で見ていた賢治は苦笑を浮かべて一人思った。


「……賢治」瀬希に抱きつかれたままの眞菜が、賢治の方を向いた。

「……薫さんは、どうなったの」


薫はそのころすでに、他県の大学に通うため、引っ越してしまっていた。本当は瀬希も賢治も引っ越しは既に済んでいたのだったが、この桜が咲く時期に合わせて、一度帰ってきていたのだった。


「……声かけたんだけど、新しい生活の準備で、いろいろ大変だから、今回は、ごめん、てさ」

賢治はそう、眞菜に伝えた。


「……そう、か」眞菜は残念そうに言った。

「……一度、ちゃんとお話ししてみたかったな、彼女とは」

眞菜は、桜に目をやった。二羽のモンシロチョウが、校庭の隅をじゃれあいながら、過ぎて行くのが見える。

校庭の隅の菜の花が、左手から右手へ流れる風にたなびくように揺れた。


「似てると思うんだよね。彼女」

眞菜は窓を見ながら言った。

「賢治からの話を聞いてるとさ、彼女、あたしに、よく似てるなって、思えた」

「……どういうところが?」

眞菜に抱きついたままの瀬希が、不思議そうに眞菜を見上げて尋ねた。


「なんだか、せっぱつまってるところ」

眞菜は困ったような表情を顔に浮かべて言った。

「せっつかれるように、今日を生きているところ、と言えばいいのかな……。今日を大事に生きてはいるんだけど、未来を見る余裕があまりないって感じが」


「……でも、眞菜の場合は、難しい病気を持ってるって所為もあるだろう」

賢治が言った。

「あいつは何ともないんだけどな」

「……彼女はたぶん、何かをし続けなければいけない人なんだよ」

眞菜が言った。

「ぐらつく足下の上で、彼女は必死にもがいているんだ」


何もしなければ、何も生まれない……。あの日、病院の待合室で聞いた薫の言葉が、ふと賢治の頭の中をよぎった。


頼るもののない彼女が、未来を切り開いていくには、今、目の前にあるものと、格闘していくしかなかった。それは、先行きの見えない不安な生き方ではあるだろうが、賢治はひどく、それをたくましいと感じた。


「俺にはできないな、ああいう生き方は」

賢治が言った。

「そうだね」眞菜が言った。「……私も、見習わなくちゃな」


「……なあ、眞菜?」

急に改まったような賢治の語りかけに不意を突かれたのか、眞菜が、えっ、と驚いたような声を上げた。

「まだ、ケーキ屋さんになりたいと思ってるか?」

彼女はおかしそうに、ぷっと吹き出した。


「……そんなこと、まだ覚えてたの?」

恥ずかしそうに笑った。

「……もう私は、忘れてたよ」


「……なって、くれないかな」賢治が言った。

眞菜は、もう一度、えっ?、と小さく声を漏らした。


「……俺の、いつか開く喫茶店で、眞菜の焼くケーキを出すんだ」


それは、眞菜が初めて豆腐入りのケーキを作った日から、賢治がぼんやりと温めていた構想だった。賢治の開く田舎の喫茶店で、彼女がケーキを焼く。彼女の作る、アレルギー患者でも安心して食べられるケーキが店のメニューに並んだら、どれほどいいだろうかと、賢治は思った。アレルギーのある人も、無い人も、同じテーブルを囲んで、同じケーキをつつくことができるのだ。眞菜が夢に見た『あたりまえ』を実現できる小さな貢献ではないかと賢治は思った。


その提案を聞いて、眞菜は照れたように微笑んでいた。

そして、また、桜の方に向き直った。


「……早く帰ってこなきゃだめだよ」

眞菜が言った。

「賢治のお母さんみたいに、私は長くは待てないからね」


……おう。と賢治は小さな声で言った。

眞菜は桜を見たまま、照れくさそうに、しかし嬉しそうに、クス、と笑ったらしかった。


「マナマナが、ケーキ屋さん?」

隣で見ていた瀬希が、驚いたように言った。

「……コーヒーも入れられない、マナマナが……」


「瀬希」眞菜が瀬希をふり返った。

「それ、誰に聞いたの?」

眞菜の気迫に驚いた瀬希は、あわてて賢治の背中に隠れた。


「マナの……、お、お父さんに……」

「お父さん……」苦々しそうに眞菜が呟いた。

理科室の扉の向こう側から、一人の人影が、あわてて逃げ去っていくのを賢治は見た。


「賢治」賢治の背中に抱きついていた瀬希が賢治を見上げた。

「……が、がんばってね、これから。応援、してるから」

瀬希は心配そうに賢治を見上げていた。

「ああ、お前もな」

賢治はそう言って、昔、そうしていたように、小柄な瀬希の頭をぐりぐりと撫で回した。


瀬希は、頭を洗われる子供のような情けない顔をして、ひい、と言って笑っていた。



彼はそのとき、ふと気になって、窓から外の様子を見た。

理科室の窓から見える春の空は青々と晴れ渡っていた。所々に浮かぶ綿菓子のような雲が、上空の強い風の流れを受けてか、いつもより早く流れ去っているのが見えた。


それは天候の悪化する前兆だと、かつて父から聞いていた。


どんな天気にも、必ず前触れがある。父は幼い彼にそう言っていた。

それを読み取れるかどうかは、どれだけ毎日、空と向かい合っているかで決まるんだ。


空の機嫌を普段気にしてもいない奴に、快晴や嵐の前触れを自然は決して見せてくれないさ。


賢治、毎日怠るなよ。

父は口癖のように、そう言っていた。


普段何気なく身近にあるものでも、何気なく見ていてはだめなんだ。

父はそういうことを言いたかったのだと、今になって彼は解った。


空を流れる雲は次第に、元の丸い形から、細くたなびくような形に変わっていった。雲の底は上端の純白な、綿菓子のような様相とは打って変わって、雷雲を思わせる暗い色を帯び始めていた。


ひと雨、降るかもな。


賢治はまだ青い空を見ながら、ふと思った。




[終]

これで、この物語はおしまいです。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

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