表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『カタワラ』  作者: Yoi
10/18

手と手

6月に入り、梅雨が本格化してくると、ようやく眞菜の家からビニールシートの前室が取り払われた。


「受験は夏が勝負」という、大手予備校のキャッチコピーに乗せられて、賢治の受験勉強への意識も次第に高まってきていたが、それでも暇を見つけては、眞菜の所に顔を出すようにしていた。


雨は、空気中から、僅かに残った粉塵のようなものまで洗い流してくれたから、雨が降った日は、体調さえ良ければ、眞菜の方から賢治の家に出向いてくることもあった。



「こんにちは」

薄い赤い色の傘を差した眞菜が、控えめに玄関先に現れると、いつも最初に飛びつくのは賢介だった。

「あ、眞菜ねーちゃんだ!」

眞菜を見つけると、彼はいつも大きな声を出し、母にも、賢治にも大仰に伝えて廻った。

外出していた飼い主がようやく帰ってきた時の子犬のような大げさな歓迎に、眞菜は困ったような笑顔を見せながらも喜んでいるようだった。


「賢介君、少し身長伸びました?」

差し出された座布団に膝を突きながら、珍しいものでも見たような目をして、眞菜が賢治の母に言った。

「……そうかしら、いつも見ていると解らないけど」

「伸びてますよ。ね、賢介君?」

眞菜に優しく笑いかけられて、賢介は恥ずかしそうに身をくねらせた。そして、いたたまれなくなったのか、卓の傍を飛び出して、奥の部屋に引っ込んでしまった。

「あ、逃げられちゃった」

「眞菜ちゃんが来て、うれしくて落ち着かないんでしょ」

賢治の母はおかしそうに笑っていた。

「恥ずかしがり、なんだから」

「誰かさん、そっくりですね」眞菜が、隣に座った賢治に目配せした。

「……なんだよ」賢治はぶっきらぼうに、そう答えた。


「ほら」

「ほんとに」

女二人は向かい合って、おかしそうに笑っていた。

賢治はその様子を不愉快そうに見つめていた。


「……いったい何の用で来たんだ?俺は受験生なんだぞ」

賢治がそう言うと、母は、

「……いくら何でも、そんな態度取ることないでしょう」と眉をつり上げて叱った。


「……眞菜ちゃんごめんなさいね。この子は……。眞菜ちゃんの家に行っている時に、ご迷惑かけてない?」

眞菜は首を振った。

「……迷惑だなんてそんな……。親も賢治が来てくれると、とっても喜ぶんです。賢治は、家にいる時、とっても、“素直”、なんですよ」

ね、賢治。とでも言うように、眞菜は含みのある笑みを浮かべながら賢治の方を向いた。

賢治は明後日の方角を向いたまま、顔を合わせようともしなかった。


「それに今日は賢治じゃなく、陽子さんに会いに来た訳ですから。……受験生は、さぞ忙しいのでしょうし」

「それも、そうね」

女二人は、賢治の方を見た。

そしてまた、顔を見合わせて笑った。


賢治は不機嫌そうに口をゆがめていたが、賢介のようにその場を立ち去ろうとまではしなかった。眞菜を歓迎しているという点では、彼も母と同じだったからである。ただ、母親の前で、眞菜にいつものように接するのはいささか照れくささも感じていた。こういう態度を取っても、彼女なら解ってくれる。そういう、古いつきあいだからこそ生まれる甘えのようなものも、彼の中にはあった。


「……ところで賢治、受験勉強は進んでるの?」

陽子に会いに来た、とは言いながら、眞菜は賢治に問いかけた。

賢治は心の中で安堵を感じた。


「……ああ、まあ」口数少なく、賢治が答えた。

「薫さんとの、勉強会は、まだ続いてる?」

「……ああ」賢治が答えた。


「勉強会?同級生と?」賢治の母が驚いたように声を上げた。「……知らなかったわ」

「賢治、お母さんに言ってなかったの?」あきれたように眞菜が言った。「全く、男子って……」

「その薫ちゃんって、女の子?」興味津々で母が聞いた。

「そうみたいですよ」

賢治が答える素振りがなさそうだったので、眞菜が代わりに答えた。


「……まあ、この子は、眞菜ちゃんって子がありながら……」母もあきれた様子だった。

「……うるさいな、そう言う関係じゃないよ」賢治は煩わしそうに答えた。

「あくまで、あれは勉強会。それ以上でも、以下でも無し」

それから、何か一言、まだ言い足りないような気がして、彼はその後にこう付け加えた。

「……それに、眞菜とだって、別に付き合ってる訳じゃ……」


その時、眞菜の表情が一瞬悲しげに曇ったのを賢治は見過ごさなかった。

「まあ、そうだけどね」賢治から顔を背け、突っぱねるように眞菜は言った。

「……そうだけどね」


眞菜の取った態度に、彼は小さな不安を覚えた。いくら眞菜とはいえ、余計なことを言ってしまったかも知れない。不安はたちまち彼の胸の内に広がり、思わず表情に表れてしまいそうになった。

しかし、今が母の前と言うこともあり、弱気を彼女に見せたくない意地が働いて、彼は相変わらず不機嫌そうな態度をとり続けた。


「……一緒に勉強しようって言うから、してるだけだ」

不安に声が震えそうになるのを必死に抑えて、言い訳のように賢治が言った。

「手の届く距離に、同じ目的の奴がいるのは心強いからって言うから……」

「手の届く距離……」

眞菜は、せっぱ詰まった表情で賢治を見つめた。

賢治は彼女の不安げな瞳を通して、その内に、やるせない切実な気持ちが激しく渦巻いているのを敏感に感じ取っていた。


「確かに、今は、とりあえず目標の大学に入るって言う、共通の夢があるもんね」母が言った。

「そのために、手と手を取り合うっていうのも、解らないでもないかな」

「夢……、そうですよね……」

眞菜は小さく呟くようにそう言った。

明らかに、来た時の元気はなくなっていた。


思うようにいかない事態に、彼は焦っていた。

話題を変えた方がいいな。賢治は咄嗟にそう思った。

「……そういえば、眞菜の夢を、まだ聞いてなかったな」

暗く沈んでしまった彼女の表情を少しでも晴らそうと、彼は努めて明るく言った。

「この間の時は、はぐらかされちゃって、結局聞けなかったから。今日は教えてくれよ。眞菜の、夢」



彼女はしかし、その賢治の問いを聞いても、何も言わなかった。

俯いて、じっとしていただけだった。


やがて、その瞳から、ぽろりと数滴の涙の雫がこぼれ落ちたのを彼ははっきりと認めた。


眞菜は悲しみに、小刻みに身体を震わせていた。

「眞菜……?」泣いているのか?

賢治は思わず身を乗り出した、そして、その手をさしのべようとすると、彼女は、きっ、と賢治を鋭い眼差しで睨み付け、差し出された手をぴしゃりと音が出るほど強く払った。


賢治は驚いて、一度差し出したその手を、思わず引っ込めてしまった。

「……どうしたんだ、一体……」

眞菜の泣いた理由が、彼にはすぐに分からなかった。


「……夢、なんて、無いよ」

消え入るような声で、眞菜が言った。


「明日どうなるかも解らない私に、どうして、未来の夢、を見ろ、と言うの?」

眞菜は先ほど見せた激しい気持ちのこもった眼差しを再び彼に向けた。

涙で濡れたその瞳はあまりに強く、賢治は思わず、身体が竦んでしまった。


「今日を無事に生きれるかも解らない……、もしかすると、明日には、私の意識はないかも知れない……。そう言う気持ちで、毎日を生きたことが、賢治にはある?」

眞菜の手が勢いよく、彼女の座った床を叩いた。

「私は、今を生きるだけで精一杯……。それなのになぜ、健康なあなたたちが描くような明るい未来を描け、と言うの?」


眞菜は突然うつむき、左の手で、両の目を覆った。

「夢を持つなんて……、私には、贅沢、なんだよ……。」

彼女は身を震わせ嗚咽を始めた。手首を伝って、涙が肘からぽたぽたと床の上に流れ落ちた。


それを、当然のことのように、言わないで……


声にもならない声で、彼女はそう訴え続けた。


賢治の母が、泣きやまない眞菜に駆け寄って、彼女を抱きすくめた。

ごめんなさいね。あなたの気持ちを解って上げられなかった。

母はそう言って、眞菜の背中を静かにさすっていた。

始めはそれを拒むように身を縮めていた眞菜も、その言葉に安堵したかのように、彼の母に身を委ねた。


賢治はその様子を、どうすることも出来ず、ただ呆然として見つめていた。

差し伸べようとして、強くはじかれた彼の右手が、熱を持ったように赤くなり、じんじんと痛んだ。



……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ