LGBTの解釈を盛大に間違えていたお嬢さまの単元
「ねえ先生」
「何ですかお嬢さま」
「先生は『LGBT』って知ってる?」
お嬢さまがまた厄介なネタを振ってきたよ……。
「一応知っていると思いますが、念のため教えていただけますか?」
うふふ、先生ったら虚勢を張っちゃって。
「仕方がないわね。それじゃ教えてあげるわ。いいかしら」
「はい、お願いします」
Lは『Lovely』すなわち『愛しい』のL。
Gは『Guys』すなわち『野郎ども』のG。
Bは『Boys』すなわち『少年たち』のB。
Tは『Tale』すなわち『物語』のT。
「つまり、年の差BLで紡ぐラブストーリーってことなのよ!」
無い胸を目いっぱい張りながら先生をびしっと指差すお嬢さま。
恐らくは斜め上の回答だろうと予測していた先生も、まさかここまで強引にこじつけて来るとは思っていなかった。
「えっと……」
当惑のあまり、つい口ごもってしまう先生。
「なによ!」
「それ、マジで言っていますか?」
「マジよ」
はあ。
ため息をついた先生は、お嬢さまをいつもの勉強机に着席させることにした。
「どこぞの薄い本から引用したのか知りませんが、お嬢さまの解釈は間違っています」
ところが、いつもなら先生の指導に素直に頷くお嬢さまなのだが、どうも今回は勝手が違う。
「そんなことないわ! だって『ほもおだほもお』は、おっさんのガチホモで髭なオカマを差別したってLGBTの団体が抗議したのでしょ!」
お嬢さまの指摘に先生もふと考える。
確かに日本における『LGBT差別』は、その大きな部分をBLつまりホモへの偏見に向けられているから、お嬢さまの解釈もあながち間違いではないのかもしれないと。
「だから私はボーイズラブ差別と戦うことにしたの!」
さいですか。
もうお嬢さまの好きにしたらいいですよね。
しかし、誤った解釈のままで活動しては、いずれお嬢さまの戦いに歪みが出るのも必然。
ここはとりあえず現時点での『LGBT』について正しい解釈を教えておかなければいけません。
「LGBTの主旨についてお嬢さまの解釈はあながち間違っているとも言えませんが、一応略称としてのLGBTは次の通りです」
Lはレズビアン(女性同性愛)のL。
Gはゲイ(男性同性愛)のG。
Bはバイセクシャル(両性愛)のB。
Tはトランスセクシャル(性同一障害)のT。
先生の説明は続く。
「ちなみにここに『Q』が加えられる場合もあります」
Qはジェンダークィア(性流動)のQ。
するとお嬢さまがいつものように右手を上げた。
「はい先生質問です!」
「どうぞ」
「Qの性流動がよくわかりません!」
確かにQはなかなかうまい表現がないのは事実。
「一般には既存の『男性』『女性』に当てはまらない、もしくは両性別を流動的に行き来する場合を指します。これは『男性でも女性でもない場合』も含まれます」
うーん。ちょっと強引な説明かなあと先生は不安になる。
言ってみればジェンダークィアというのは、『人類』という集合内で形成される『男性集合』と『女性集合』に対する『補集合』であるという説明が明確と言えば明確なのだが、数学用語に拒否感を示す人々がいるのも事実だし、何より具体性に欠ける。
ところが、そう考え込んでいる先生に向かって、お嬢さまが自信たっぷりな表情で再び手を上げた。
「先生、わたしはQを知っているわ!」
ほう。
もしかしたら薄い本にQも登場しているのですかね?
「よろしければ私にも教えていただけますか?」
するとお嬢さまは再び無い胸を張って答えた。
「『大阪のおばちゃん』よ!」
?
「大阪のおばちゃんですか?」
「そうよ!」
何を言っているんだこのアホぽんは?
先生は落ち着きを取り戻すために一度深呼吸をすると、努めて冷静にお嬢さまに尋ね返す。
「なぜ大阪のおばちゃんがQなのですか?」
「だって、大阪のおばちゃんは高速道路のサービスエリアで女子トイレと男子トイレの両方を使えるのでしょ!」
そうだった……。
過去にお嬢さまは長蛇の列となっている女子トイレに我慢しながら並んでいたら、大阪弁のおばちゃん達が続々と男子トイレに入っていくのを見てしまっていたのだ。
「男性トイレも女性トイレも使えるってことは、男性でもあり女性でもあるってことでしょ!」
先生も考える。
確かに大阪のおばちゃんたちの行動様式は、性に囚われていない、すなわちジェンダークィアなのではないかと。
いや、あれはジェンダーフリーと表現すべきなのか?
「確かにお嬢さまの指摘通りですね。ただ、大阪のおばちゃん全てが男子トイレを使用しているわけではないと思いますから、『大阪のおばちゃん』でひと括りにするのはちょっとまずいかと……」
しかしお嬢さまは不満そう。
「先生にいつもの歯切れがないわね!」
そりゃそうだ。
こうした話題はどこで誰にどう突っ込まれるのかわかったもんじゃないので、用心を重ねなければならない。
ところが、先生の心配をよそに、お嬢さまの興味は既に別のところに移っている様子。
「ねえ先生」
「なんですかお嬢さま」
「LGBTQって、LGBとTQでちょっと違うわよね?」
お、いいところに目をつけましたねお嬢さま。
「そうですね。LGBは他者との関係であり、TQは本人の内面に関わることですからね」
LGは愛した相手が同性であり、Bはそうなる場合もある。
TQは本人自身の肉体的な性別と精神的な性別の乖離による。
「ですからTQの方々が他者との関わりあいを持つ場合に、LGBの問題に直面することは多々あります」
先生の説明に、お嬢さまは素朴な疑問を持った。
「TQの人たちが苦しむ理由も、それに対してのケアや制度の整備も必要だということはわかるわ。でもLGBの人たちにはどうすればいいの?」
お嬢さまの問いに先生は感心したように目を細めた。
「世界各国においては、宗教や法律などでLGBが明確に差別されている事例は多々ありますが、こと日本においては『婚姻』を認めるだけで、LGB問題は片がつくと思いますよ」
「そうなの?」
「そうです」
日本におけるLGBへの法的な差別は『同性婚』を認めていないこと。
「なら、ちゃっちゃっと同性婚を認めちゃえばいいでしょ?」
「ところがそうは簡単に行かないのです」
「それってア○が悪いの? ○ベ政治が悪いの?」
「仮にも一国の首相を呼び捨てにする品のなさは感心しませんね。でもまあ行政の長である総理大臣として責任があるとは思えませんが、立法府の最高権力者である自民党総裁としては大いに責任があると思います」
先生の説明に、いいこと思いついたと満面笑顔のお嬢さま。
「なら同性婚を認める法案を提出すればいいのね?」
「ところがどっこい、法案提出にはとても高いハードルがあるのです」
「なんで?」
「同性婚を法制化するには『憲法改正』が必要だという考え方があるからです」
日本国憲法第二十四条一項
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
「『両性の合意のみ』ってあるわね……」
「そうです。そしてここが憲法学者達の解釈が分かれるところでもあるのです」
両性を拡大解釈すれば同性婚も認めることは可能とする合憲派。
両性は男性、女性という二つの性を規定しており、本憲法下においては同性婚を認めることはできないとする違憲派。
「それってGHQが日本国憲法にLGB差別という爆弾を内包したってことかしら」
話に連合国を巻き込み始めたお嬢さまに先生は釘を刺す。
「戦勝国による文化的侵略を意図した陰謀説を唱えるのは楽しいですが、多分違うでしょう」
「それじゃどうして?」
「恐らく当時の日本はLGBを認識していなかったのですよ。それに終戦後といえまだまだ『家』の概念が強い時代でしたから『婚姻』と『恋愛』は別ものだったのでしょう」
当然のことながらお嬢さまには素朴な疑問がわき上がる。
「ふーん。なら憲法を改正すればいいのに」
「ところがここでまたややこしいことがあるのです。お嬢さまは今の憲法改正論議の焦点をご存知ですか?」
「戦争ができる国にするってことよね!」
「違います」
先生はため息をつきながら言葉を続けていく。
「お嬢さまがそう思うのも無理もないのかもしれませんね。焦点は『第九条の改正』にあるとメディアは扇動し、政府も主だった反論をしていないのは事実ですから」
「それと同性婚とどんな関係があるの? って、あ!」
「気がつかれましたか?」
実は、九条の改正を支持する人々、すなわち改憲派の中には、自称保守である、同性婚やLGBを認めない層がいる。
逆に、九条の改正に反対する人々、すなわち護憲派の中には、自称リベラルである、LGB差別を大袈裟に訴える層がいる。
しかし、同性婚を法制化するには憲法改正が必要だし、一方で同性婚に反対する最も手っ取り早い方法は憲法改正に反対することになる。
つまり彼らは九条と二十四条でそれぞれ逆の主張をしなければならないのだ。
「面倒くさいわね」
「そのとおりです」
「でも、パートナーシップ制度って渋谷区とかでやっているわよね? あれを利用すれば婚姻と同様の権利を得られるのじゃないのかしら?」
お嬢さまの思いつきに先生は首を左右に振る。
「LGB問題に無関心な層は当然パートナーシップ制度にも無関心ですから、単純に婚姻と同等と考えがちですが、実はかなり違います」
「どこが?」
「パートナーシップ制度に、法的な効力は一切ありません。つまり法で定められた『婚姻』による権利は認められていません」
先生の説明にお嬢さまは思わず声を荒げた。
「なら意味がないじゃないの!」
「ところがそうでもないのです」
パートナーシップ制度は、行政がパートナー同士の関係を公に認めることを証明することにより、民間における「夫婦」と同等のサービスを受けられるように配慮したものである。
「つまり、パートナーシップ制度があれば、勤務している企業が認めてくれれば家族手当も支給されるし、社宅にも入居できるようになります」
「民間に丸投げなのね」
「まあ、日本国自体が平気でサラリーマンの徴税を企業に義務付けたりしていますからね。しかしそれでも、法から門前払いを受けてきた人々にとってみれば貴重な第一歩です」
「なら、同性婚が法制化されればLGB問題はなくなるのかしら」
「少なくとも私はそう思っていますよ」
現在日本におけるLGBへの差別は『婚姻』のみ。
逆にいえば婚姻を法制化すれば、LGBは日本国内においては差別から解放される。
お嬢さまは心配そうな表情となり、先生に尋ねた。
「でも、偏見やいじめに対してはどうするの?」
ところが先生はしれっとしたもの。
「放っておけばいいのです」
「でも、それじゃあ差別はなくならないんじゃ……。って、差別はなくなっているわよね。あれ?」
「そうです。差別がなくなった後、偏見と闘うのは本人達の問題なのです。偏見に対し法的な規制を設けるのは愚の骨頂だと思いますよ。 そんなことをすれば偏見は地下に潜りますから」
そっか。
お嬢さまは考えてみる。
法的な差別がなくなれば、ホモもレズもバイもそれ以外も同じ土俵に立つことになるものね。
あ、いいこと思いついた。
「ねえ先生、いっそのことLGBはLGBNって呼ぶことにしましょうよ?」
お嬢さまの提案に先生はつい鼻白んでしまう。
まさか、レズゲイバイノーマルとか言い出すのではないでしょうね?
ノーマルつまり普通という表現こそ、他者に偏見を持つ強力なアイコンだというのに。
「まさかお嬢さま、Nは『ノーマル』ではないでしょうね?」
するとお嬢さまは一瞬先生をぽかんと見つめてから、逆にこの人は何をバカなことを言っているのかというまなざしを向けた。
「違うわよ先生! Nは『ノンケ』のNよ! ノンケがノーマルだなんてあるわけないじゃない!」
そうでした。
お嬢さまはBL大好きの腐女子でした。
「それは失礼しました」
「わかればいいのよ! 頭を使ったらちょっとおなかがすいちゃったわ」
「それではお昼の準備にしましょうか」
今日のお昼はお嬢さまが大好きなジェノベーゼ。
先生はお嬢さまのことばを思い出しながら味付けを変えてみる。
バジルの代わりに紫蘇を使い、松の実の代わりにゴマを入れ、少しわさびを効かせたソース。
「先生、いつもの味じゃないけれど、これもおいしいわ!」
「それはよろしゅうございました」
そう、違うことは怖いことではないのです。