その7「惑星の夕日」
「肌にね、水を感じるんだよ、雑巾の手触りとかほこりっぽい空気とか、そういうものひとつひとつが」
クオンが優しく言う、噛みしめるように言う。
「生きている肌触りなのさ」
生きている肌触り、か。俺は黙して手を動かす。床を拭く。こんなふうに雑巾で床を拭いたのなんて、一体いつぶりだろう、それこそ学生の頃ぐらいしかしていなかったのではないだろうか。机の上のゴミ類をクオンがもってきたゴミ箱に移し、別の固く絞った台拭きでここも拭く。
時刻が五時を過ぎ六時にまわりかけたころ、ようやっと調剤室の中は見れる状態になってきた。表面的な形だけは整えられた。
それでも、たったの一部屋を片付けたに過ぎない。それにここもまた散らかされてしまうような気もする。ふと賽の河原の、積み上げても積み上げても積み上げるたびに崩される石の塔を連想した。
「はい、今日はここまでです!」
クオンが言った。
「ここまで? もういいのか?」
「そうだよ、だってほら」
クオンが俺の腕を掴み、廊下に連れ出す。廊下は朱に染まっていた。窓の近くにクオンが歩み寄ったので俺も続く。夕日が水に沈んだ街に沈んでいく。
「夕暮れだから、今日はもうおしまい」
俺は、不意に体が震え出すのを感じた。自分でも抑えることができなかった。
「……夕日なんて……久しぶりに見た……」
そうなのだ、見ていなかったのだ。
「ずっと仕事で……見れてなかったんだ、こんな時間には……」
「……つらかったの?」
何も答えることができなかった。
情けない、という気持ちが腹の底で暴れている気がした。
「ここでも働いてもらわなくちゃいけないけれど……でもここでは、『生きるために働いて』いいからね。もう、『働くために生きる』必要はないからさ」
「……やめろよ!!」
不意に俺の口をついて出た言葉に、俺はショックを受けた。違う、俺が言いたい言葉はそんな言葉じゃない。それなのに俺の心で暴れていた『情けなさ』は、今度は目の前の優しい少女にも牙を剥いた。
「そんな言葉は聞きたくない! そんな甘えが許されるなら……俺の今までの努力はいったい何だったんだ?! 言っておくがな、俺はこんなぬるま湯みたいな場所で暮らしているお前とは違うんだ、俺はずっと自分を高めてきたんだよ俺になりに! そうじゃなきゃ俺みたいな男があんないい大学は出られなかったし、あんないい会社にも入ることはできなかった!」
クオンは静かにかぶりを振った。
「人を死んじゃうまで追い詰める会社が、『いい会社』なわけない」
震えはいよいよ極まって、俺はその場にしゃがみこんだ。言いたい言葉があった。なのにそれが、どうしても口に出せなかった。
廊下の向こうから、白衣の幼女が近づいてきた。
「きゅーびょーさんですーー!」
白衣の幼女が俺の顔をのぞき込んで、心配そうに声をかけてきた。
「だいじょうぶですかっ? どこがいたいんですかっ?」
「……いや、大丈夫……」
「だいじょうぶじゃないです! くるしそうです、ドクターストップをかけます!」
クオンがほほえんだ。
「あちゃー、ドクターストップでちゃったね〜。今日はもうおしまい、また明日よろしくね」