その10「水の底①人類絶滅」
クオンが俺を案内したのは、1階へと下る階段だった。
「この先さ」
「待ってくれ、まさか潜るのか?」
「この水はただの水じゃないよ。息はできるから安心して」
そういうとクオンは階段を降りていく。すぐに腰まで水につかった。ほらはやく、と振り向いて俺を急かす。クオンはさらに下っていく。頭まで水に潜り、階段の踊り場でまた振り向いた。息苦しい表情は見受けられない。
まさか本当に?
俺は足を踏み出した。生暖かい水だ、服が肌に張り付いて気持ちが悪いが、そう言うところも含めて普通の水である。さらに進んでいく。水の抵抗を感じる。俺は立ち止まった。息ができる? ありえない、ただの水ではないか。
ふと前を見る。
クオンがいない。
「おい、どうした!」
俺は叫んで水に潜った。どこに行った?! まさか本当に1階に降りて行ったのか?! 息を止めたまま踊り場の、角を曲がる。
第二次世界大戦中、ユダヤ人はナチスドイツにより強制収用所に送られた。ガス室送りの恐怖、過酷で醜悪な重労働、多くのユダヤ人が命を落とした。この地獄を生き延びた人間の一人に、オーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクルがいる。彼は言った。最後まで生き延びることができた人と、力尽きて死んでしまった人を分けたのは、決して『体の頑丈さ』ではなかったのだと。
人を分けたもの、それは『希望』の有無であった。「妻子に再び会う」「戦争が終わったら、やりかけていた仕事をする」。ヴィクトール自身、この地獄の中で学んだ教訓を学生たちに話すという夢を持ち、地獄の中を生き延びたという。
今はどうだろう。
亡くなるはずのない病で、一人また一人と人が死んでいく。自ら命を断つ患者もいる。あるいは……
「小柴先生……小柴先生! 大変です、誰か! 誰かはやく!」
私の同僚である小柴という男は、優秀な内科医であった。将来的には地元に戻り開業医になることが夢だったと、いつか聞いた事があった。地域に根ざし、幼い頃に世話になった近所のかかりつけ医のようになるのだ、と。
その日小柴は自らに大量の薬を『処方』し、自殺した。29歳だった。
数年前のある日から、この世界には『幼女』しか生まれてこなくなった。『幼女』は人間ではない。生命体かどうかもわかっていない。一定以上に成長せず、にもかかわらず知能水準は人間のそれをはるかに上回り、人間がいかなる手段を講じても殺すことができず、次から次に生まれて来る。人工授精・クローンなどの方法でも人間ではなく『幼女』が生まれた。
今も世界の各所で、『幼女』を根絶し人間を取り戻す研究が続けられている。しかし未だ、朗報は聞かない。
この意味がわかるだろうか。
人類は後継者を喪失した。
絶滅への道を、ゆるやかにたどり始めたということなのだ。




