その1「俺が死ななければならない理由」
欄干の向こう、夜の海に浮かぶ光の島のあの摩天楼の中では、深夜一時を過ぎた今もなお幾千もの人間達と幾万もの機械達がせわしなく動き回っている。
わかっているのか、俺を殺すのはまさしくお前達なのだ。俺が死ねば、俺を雇っていた会社は青白い顔の年寄りどもは、また俺のような男を捕まえてまた一から教育だか洗脳だかを施す必要にかられるだろう。しかしそれも、お前達の蒔いた種だ、自業自得だ、せいぜい苦しむといい。俺が死ねば、里の家族は悲しむだろう、しかしそれもあの摩天楼の所為なのだ、どこにも逃げ場のない資本主義という怪物が俺たちに強要してきたものの所為なのだ。
逃げ場のない? そうとも、どこにも。グローバル社会ーーこの地球をあまねく包み込んだこの怪物は、人々に『脅かされることのない』生存と、利便性と、たゆまぬ物質的進歩をもたらした。反面それを生み出す労働者には、便利さをつくりだすための超長時間労働、周りより進歩しなければ生きられない自由競争社会、とかもろもろが押し付けられた。病で倒れようにも、進歩した医療は簡単な病気程度は何のことなく治してしまう。心を病んでも薬で対処だ。それだけ『恵まれた環境』がある訳だから、働けないのは単に当人の甘えというわけだ。
人々の幸福ために労働者は不幸に堕ちろというのだ、馬鹿馬鹿しい、ふざけている! その人々の大多数は労働者ではないか! 自分の汚物を自分の口に押し付けているようなものではないか!
俺は降りる。この命をもって、この無間地獄のような『総活躍社会』とやらへの抗議とする。決意を新たに欄干をまたいだ。眼下には黒々とした冬の川が流れている。街頭の灯が、ゆらゆらと不気味にまたたいていた。
里の母の顔が脳裏をよぎる。母は、俺がまがりなりにも名の知れた大企業に入れたことを喜んでいた。怒りが腹の底から込み上げてくる。俺が死ななくてはならないのは、まさにその喜びのためである。息子を祝った母の心が、皮肉にも息子を殺すのだ。
怒りに任せ、俺は足元を蹴った。
「あっ、目をさましたよーせんせいー!」
気がつくと、そこは幼女だった。
違う、俺の目の前に年端もいかぬ少女がいて、俺を覗き込んでいた。