愛/イト/糸
この世界には、様々な感情が渦巻いている。
それらのどれかが一つでも欠けると、途端に世界のバランスは崩れる。
あたし達のようにね。
◆
「ママ、私達って今、幸せ……なのかな……?」
「うーんどうだろうね。とりあえず、ママは幸せだよ」
……今日もいちゃついてるねぇ。タンゼンを二人羽織みたいにしてこたつになんか入っちゃって。あんた達、本当の母娘のようだよ。同い年とは思えないね。
座椅子に腰掛け、豊満な胸を持つこの女は間真奈。あだ名は「ママ」。けしからん体だねぇ。
で、その彼女の膝に座ってミカンを剥いているロリは安達蘭。あだ名は「ちーら」。およそ社会人らしくない容姿だね。
……おや? ちーら、ミカンなんて食えるのかい?
たしか、ママの涙しか味を感じないはずだけど……。
………………ああ、そうか。そうだったね。
◆
ママとちーらの愛の巣に居候する前、あたしはただの黒い野良猫だったよ。ちょいと、あたしの昔話でも聞いておくれ。
その日も、野良猫らしく人間が捨てたゴミの中から食い物を引っ張り出していたときだったよ。
あんたがやってきたのは。
「おや、この辺じゃ見かけない顔だねぇ」
あたしの元へやってきたのは、あたしよりも一回り体の小さなペルシャ猫。
「えぇ、ちょっと……」
「捨てられたのかい」
「……はい」
「……そうかい。そんじゃ、飯の探し方でも教えてやるよ。言っとくけど、あんたが今まで食べてきたようなモンは忘れな」
「はい。よろしくお願いします」
よく笑うから、名前は「スマイル」なんて、人間てやつは考えが安直だね。あたしがあんたに名前を聞いたとき、笑って悪かったよ。
あんたは笑うのも、誰かを笑わせるのも、得意だったね。
あんたと何ヵ月も関わっているうちに、あたしはあんたに惚れちまったよ。
二回り以上年下の、しかも同性であるメス猫を好きになるなんて、あたしも年なのかねぇ。一人でいると、ついつい寂しくなっちまうんだよ。
でもある日、あんたと「話せなくなった」。
あんたは、あんたじゃないモノになっちまったよ。
……動物虐待……かい。
「おい、飯でも食いに行こうかい。また、笑っておくれよ。……また、あたしを笑わせておくれよ…………」
……なんとか言ってみたらどうだい。
……ほら、雨が降ってきたよ。雨宿りでもしようじゃないか。
その言葉が声にならなくて、あたしは年甲斐もなく走り出した。
文字通りスマイルを失ったあたしがこの二人に拾われたのは、そんな豪雨の日だったよ。
◆
………………ああ、そうか。そうだったね。
ママ、あんたの頭に巻かれた包帯。
一ヶ月前、轢き逃げに遭って残った脳の損傷。よりにもよって傷ついた所が、涙を流す機能を司る場所だったこと。
ちーらが「好きな女の子の涙を定期的に舐めないと栄養失調で死んでしまう病」ていう感じの名前の病気の患者だったこと。
あたしも年だねぇ。こんな大事なことをすっかり忘れちまっていたよ。
ママ、ちーら。あんた達、ちょいと腹がうるさいよ。……まぁ、子守唄にはちょうどいいのかもしれないけどねぇ。
あたしは「喜」をなくした。
あんた達は「哀」をなくした。
この世界には、様々な感情が渦巻いている。
それらのどれかが一つでも欠けると、途端に世界のバランスは崩れる。
どっこいしょ。……こたつの上ってのは、ちと堅いねぇ。
……おや、音が聞こえなくなったと思ったら、あんた達もう寝ちまったのかい? ……いい寝顔しちまって。幸せそうだねぇ。
……………………さて。
あたしも、スマイルに会いに行こうかね。
おやすみ。
フェードアウトする感じで、完結いたします。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
他作品でお会いしましょう。
それでは。