オッサンタと過ごすクリスマス
読者の皆様、今年もメリークリスマス。
短い話ですが、どうぞ。
クリスマス。それは聖なる夜。街という街が極彩色のイルミネーションで彩られ、キリスト教徒でもない人々が浮かれ出す、一年に一回の特別な夜。街には幸せの絶頂に浸るカップルたちが溢れ返り、店という店はここぞとばかりにクリスマス商戦に汗を流す。
「皆さん、仕事お疲れさまです。今夜は聖夜ですから、そろそろ切り上げましょうか。うちは明日から連休だから年内はこれでお終いだね」
幸福を運ぶサンタクロースの故郷とは遥か遠くかけ離れた地、極東随一の摩天楼、東京。無機質なコンクリートの灰色と色とりどりの光に塗り潰されたその街の一角、小奇麗な区役所の一室で男の暢気な声が響いた。暖房の効いた室内で仕事の終わりを告げた部長のネクタイは赤と緑のストライプ柄。既にクリスマス気分であることが見て明らかだった。職員たちがいつから隠し持っていたのか分からないクラッカーを取り出して、パンパンと鳴らす。
「部長、今年もお疲れ様でした。来年もよろしくお願いします!」
「年賀状、送りますからね」
次々に部長に労いの言葉をかけながら職員たちは一人、また一人と暖かい職場から姿を消していく。人柄の良いことで皆から評判の高い部長はそんな部下たちを最後まで見送っていたが、未だ一人の職員が帰ろうとしないことに気付いた。その職員は奥まって目立たない位置のデスクに座り、慣れない様子で目の前のパソコンと格闘している真っ最中だった。この前、注意したばかりだがイヤホンを着けたまま仕事をしていた。おおかた音楽のせいで聞こえなかったのだろう。部長は苦笑を浮かべながら、若い職員の肩を叩いた。
「端場君。仕事は終わりだよ」
端場と呼ばれた若い職員は慌ててイヤホンを外し、背後を振り返る。バツが悪そうな顔を向けると、部長が笑っていた。
「集中するのは良いことだけど、もう少し周りを見なさい。ほら、皆はもう帰ったよ。今日はクリスマスなんだから君も早く帰ってゆっくり休みなさい」
「……す、すみません、部長。ありがとうございます」
「いいの、いいの。でも次からは気をつけて。それじゃ、後片付けは私がやっておくから。良いクリスマスをね」
「は、はい。ありがとうございます……でも片付けは自分も手伝いますので!」
いくら部長が底抜けに人の好い人物だとしても、丸投げは流石にやばいだろう。端場は慌ただしい手つきで部長の手伝いを始めたのだった。
◇◇◇
聖夜特有の喧騒に囲まれながら端場は区役所の帰りを歩いていた。ペアルックのコートに身を包んだ一組のカップルとすれ違う。愛し合う男女の楽し気な会話が否が応でも耳に入り、端場は一抹の虚無感を覚えた。首都圏にキャンパスを構える、知名度はあれど世間から見たランクはパッとしない三流大学を卒業して、はや三年。小さな区役所の小さな部署で働く一兵卒の端場に大切なパートナーはいない。四捨五入すればもはや三十路になるがいまだに女性の一人とも付き合ったことがない彼にとって、カップルの仲睦まじい会話ほど空しくなるものはなかった。
街中に立つ巨大なクリスマスツリーや楽しそうな様子で歩いている家族をわざと見ないまま、端場の足は安物で溢れるスーパーマーケットに向いた。そう、部長の言った通り今日はクリスマス。たまには美味いものを食って高い酒を飲み、それなりの贅沢をしていいだろう。……そう言えばアパートの部屋で待っているあいつはカマボコが好きだったな。ついでだ、買って行ってやろうか。
そこまで考えが至った時、端場の顔に自然と笑みが生まれる。そうだった、自分は別に一人ぼっちというわけではないではないか。女性ではないけど、一緒に酒を飲む仲間がいる。今頃、炬燵に潜り込んでテレビでも眺めているであろう、あの怠惰な居候が。
◇◇◇
「よう、ただいま。帰ったぞ」
アパートの部屋の鍵を開けた端場の密やかな楽しみ。そいつの正体は。
「お? ハッシーか! 遅かったじゃないか。もう先に飲み始めてしまっているぞ」
上下ともに赤一色のだぶついたスウェット。食べかすだらけの、白く立派な口ひげ。丸っこい顔は酒のせいで既に赤い。仕事道具であるはずの大きな袋を丸めて枕代わりにしている、その好々爺は。
「おい、オッサンタ。缶ビール何本開けてんだよ。せっかくワイン買ってきたのに、これから飲めるんだろうな?」
「これっ! オッサンタ言うな、オッサンタ!」
そいつはどうしようもないほどぐうたらで、仕事をまったくしない(というか放棄した)、謎だらけの自称サンタクロースのおっさんだった。
……端場がこのサンタのおっさんを拾ったのはちょうど去年のクリスマスのことだった。いつも通り仕事を終え、何の面白みもないクリスマスを一人自室で過ごそうと帰宅したその日、部屋の前の廊下にこいつはいた。恐らくプレゼントの入っている袋を脇に無造作に投げ出して、煙草を吸っていたのだ。マールボロ・メンソールだった。
上下レッドのだぶだぶスウェットで完全武装した不審者は、剣呑な光を宿した目を細めて口元から紫煙を吐き出しつつ端場を見た。そんなガラの悪い老爺の姿は端場に言わせればサンタクロースというよりもアメリカのカラーギャングにそっくりだった。そしてチンピラと見紛うサンタは言った。
「わし、仕事に疲れた」
その時の端場はいつまでも慣れることのできない仕事を終えて、非常に疲れていたのだろう。きっと、どこかがおかしくなっていたのだ。だから、彼は怪しさ満点のサンタに言ったのだ。
「なら俺と飲むか? 酒」
「……オッサンタ。なんか面白い特番やってる?」
新聞の番組表に目を走らせている職務放棄サンタが居着いてからちょうど一年か。一年って早いんだな。狭い台所で刺身を切りながら端場は何故か感慨深い気持ちになっていた。別にオッサンタがやって来たからと言って日常が劇的に変わったわけではない。仕事は相変わらず退屈なくせに簡単なものでもないから毎日疲れるし、彼女もいつになっても出来ない。社会人になってからは大学の頃と違って徒歩通勤になったが、違いはそれくらいだ。毎日同じ地下鉄に乗っていたのが、今度は毎日同じ道を歩くようになっただけ。つまらない大学時代に描いていた理想の将来はどこにもなく、社会なんてこんなものかと感じるようになっただけだった。高校時代、同じクラスに籍を置いた友人が業界最大手と言われるような超一流企業に入社したと聞いた時に抱いた嫉妬の感情も、とっくのとうにどこかに忘れてしまった。
そんな折だ、オッサンタに出会ったのは。最初こそ、これはガキの頃に夢描いていた非日常の入り口なんじゃないかなどと考えて、オッサンタにあれこれ絡みまくったものだった。あんたは魔法が使えたりしないのか? 実は魔法の国から来たんだろ? 異世界はどこにあるんだ? などとそんなことを聞きまくっていた。今思えば、随分と恥ずかしい言動をとっていた。そういう時、オッサンタは言ったのだ。袋の中からプレゼントと思われるライトノベルを取り出して。
『読み過ぎじゃって、こういうのの』
笑顔でそう言うオッサンタを見て、端場も悟ったのだった。こいつに過度の期待はやめておこう、と。
「……面白い特番のう。なんかクイズ番組があるぞ」
「誰、出てる?」
「ジャーナリストの池下章三と塾講のモリシュー、あとヒヨ太郎じゃな」
「ふーん、まあそこでいいか」
切って盛り付けをした刺身を居間に持っていく。オッサンタは既に缶ビールの空き缶をビニール袋にまとめていて、机の上を綺麗にしておいてくれていた。仕事は思い切り放棄しているくせに、こういうところだけはやけに気が利く。
「あ、ハッシーよ。カマボコは買ってきてくれたんじゃろうな? ピンクと白のやつ」
「もち。もうちょっとしたら切るから待っとけ」
丸顔に満足そうな笑みを浮かべ、オッサンタは刺身を頬張り始める。このおっさんは生魚や魚介類の加工品が大好きだ。恐らく北欧の出身だから食べ慣れているのだろう。かく言う端場も鮮魚類は好きだった。ガキの時分には肉類ばかり好んで食べていたが、今では同じ値段なら魚や野菜を買って食べることの方が多い。大人になったことでいつの間にか食の嗜好が変わったのだろうか。ああ、小さい時、毎年のようにローストチキンが食卓の真ん中にあって家族皆でテーブルを囲んでいた頃が懐かしい。
「……オッサンタはさ、クリスマス好きか?」
「ん? これまたいきなりの質問じゃな。そうだのう……今は好きだ」
「今は?」
ワイングラスを片手に端場は聞き返した。
「そ、今はな。何せ、去年まではわしは仕事をしなければならなかった。辛かったものよ」
「もうサンタの仕事はしねえの?」
テレビの中では金色のど派手な衣装を着込んだ芸人が、自身の持ちネタを披露している最中だった。そこまで面白いわけでもないのにゲストは皆盛り上がっている。よく分からん世界だ。
「わしはもう引退じゃ、引退! あとはたらふく酒を飲んで人生を終えたい」
食費くらい働いて入れてくれねえかな。端場はそんなことを思ったが、言うのは止めた。こんな怪しい爺さん、多分どこも雇ってくれないだろうし、何よりこのおっさんにこれからまた別の仕事をしろ、なんてあまり言いたくなかったからだ。オッサンタがどんな仕事をしてきて今までどんな苦労を経験してきたのか、端場は何一つ知らない。オッサンタとの距離は近過ぎず、そして遠過ぎず。それで良いのだ。
番組が途切れ、コマーシャルが流れ出す。サンタクロースの衣装を着た子供たちが走り回っている。何のコマーシャルなのかよく分からないコマーシャルだった。でも一つだけ確かに言えたことは画面を見つめるオッサンタの目がどことなく悲しそうなものだったこと。
「……仕事を終えたおっさんに乾杯!」
赤ワインが並々と注がれたワイングラスを突き出した端場の前で、サンタクロースは目を白黒させていた。だが、すぐにその丸顔に笑顔を浮かべると、同じようにグラスを突き出す。
「今年の仕事を終わらせたハッシーに乾杯じゃ」
グラスとグラスがぶつかり、軽く高い音が狭い部屋に響いた。ああ、なんだ。幸せじゃないか、こういうのも。オッサンタと過ごすクリスマス。それはとても不思議で、少し悲しくて。でも、確かに幸福だった。