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翠と貴斗


 カツカツとヒールの音をわざと鳴らして歩く(みどり)の後方から、バタバタと走る足音がする。

「待てって、翠!」

 乱暴に腕を取られ、

「やだって!」

 反射的に腕を払った。

「って〜!」

 貴斗(たかと)の頬に細く赤い線が入った。

「あ・・・・・・」

 硬直したように貴斗の頬を見つめる翠。次の言葉がなかなか出てこない。

 ごめん、と言おうと口を開きかけた途端、

「ごめんくらい言えよ。ホント、そういうとこ、かわいくねえな、お前ってさ。」

 ため息を一つ吐き、翠から視線をそらす。

「貴斗のバカ!」

 バッグの取手を握りしめ、翠は踵を返して走りだした。

「あ、翠!」

 今度は追いかけなかった。舌打ちして、貴斗はジーンズのポケットに両手を突っ込み、来た方向へ戻って行った。

 悔しくて、むかついて、翠は走りながら涙が出るのを必死でこらえた。泣き顔なんか、見られたくないから。

「きゃっ!」

 何もないところで転ぶ。

「・・・・・・いったあ〜。」

 膝を擦りむいた。触ると、少しぬるっとした感触があり、暗がりの中でも血が出ていることが分かった。

 周囲を見回し、誰もいないことにほっとした。でも、すぐに誰かが来るかもしれない。急いで立ち上がろうとする。

「きゃっ!」

 また、小さな悲鳴をあげて膝をつく。

 ヒールに手をやると、踵のところからぱっくりととれかかっていた。

「あ~!お気に入りだったのに!」

 思わず声を上げる。

 周囲を見回すが、辺りに靴を修理してくれそうなところは見当たらなかった。

「もう!」

 苛立ちながら、意を決してとれかかっているヒールを取り去り、ひょこひょこと歩いて自宅へ向かった。

 膝が痛くて、悔しくて、情けなくて、苛立って、涙がにじむのをこらえようと、唇を噛んで歩いた。



 ケンカの原因は何だったのか。

 帰宅し、思いの外出血していた膝を洗い流すために、少しぬるめのシャワーを浴びながら思い返していた。

 今日は二週間ぶりに貴斗に会えると、朝からうきうきしていたはず。なのに、なんでケンカになっちゃったんだろう。きっかけも覚えていない。それくらいささいなことだったんだと思う。

「貴斗の・・・・・・ばか。」

 頭からシャワーを浴びて、涙と台詞をかき消した。

 膝の痛みよりも、胸の方がズキズキと痛んだ。

「でも・・・・・・私のほうが、もっとバカかも。」

 せっかく会えたのに、久しぶりだったのに、もっともっと楽しい時間を過ごすはずだったのに。

 浴室から出ると、着信があったことをスマホがチカチカと知らせていた。

「貴斗!?」

 濡れた髪をそのままに、スマホに飛びついた。だが、画面を見て、がっくり肩を落とした。そこには、会社の後輩の名前が。

 タオルで髪を包み、後輩にかけ直す。今日のデートのために代わってもらった仕事の内容についてだった。


 その夜、翠はなかなか寝付けなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ち、何度もスマホを見つめる。

 電話をかけようか。でも、時間が遅くなってしまったし。

 そんなことを悶々と考えて、白々と夜が明けていった。


 翌日、寝不足と泣いたせいで目が腫れぼったくて、朝からホットタオルとマッサージをする。メイクはいつもよりものらない。朝から気分は最悪だった。

「あ、先輩!おはようございます。」

 後輩がにこにこと話しかけてくる。そして、翠の顔を覗き込んで、

「あれ?先輩、目が真っ赤ですよ。さては、寝不足ですね?」

 くるくるとした瞳に、からかいが混ざっている。

「良いな~。彼氏とデートか~。」

 後輩の言葉に当たり障りのない言葉を返して、翠はさっさと自分のデスクに向かう。

 仕事に集中することで、昨日のことを思い出さないようにしていた。午前中は良かった。昼休みに入ると、集中が切れ、貴斗のことを思い出してしまう。

「・・・・・・私って、こんなに好きだったんだ。」

「え?」

 同期の友人とランチをしている時に、思わず声に出してしまった。聞き逃さなかった友人の質問に、慌てて食べていたパスタのことと誤魔化した。納得いかない顔の友人に、翠は話題を変える。不自然な翠だったが、友人はそれ以上は追求してこなかった。


 ランチを終え、午後からの業務を始める。いつものことながら残業確定な量だったが、翠はいつにない集中力で脇目も振らずこなしていった。

「お先に失礼します!」

 終業時刻のチャイムが鳴り終わるとともに、翠はカバンを掴んで挨拶もそこそこに出て行った。

 会社が入っているビルを出て、早歩きで向かう。まだ日が高く、夕焼けにはもう少しといった時間、道を歩いている人はそんなに多くなかった。早歩きがだんだん小走りになっていく。会社の最寄り駅に着くと、自宅とは逆の路線の電車に飛び乗る。

 しばらく電車に揺られていた。ドア近くに立ち、腕時計を何度も何度も見る。窓の外を見る。また、時計を見る。そうしているうちに、駅に電車が滑り込んだ。

 ドアが開くと同時に飛び出し、翠は走った。駅を出て、必死で向かう。歩く人に肩がぶつかり、よろめきながら謝り、また走る。息が切れて、少し立ち止まり、また走る。

 いくつものビルの前を通り抜け、翠は走った。少しでも早く向かいたかった。ただそれだけが翠を走らせていた。


 あるビルに着くと、翠の足が止まった。はあはあと上がった息を、深呼吸をして呼吸を整える。

「翠?」

 ちょうど出てきた貴斗が深呼吸している翠に声をかける。

「貴斗・・・・・・あの・・・・・・」

 呼吸を整えながら、翠は貴斗のもとへ走り寄った。

「貴斗、あのね。」

 翠が言いかけたとき、

「昨日はごめん!言い過ぎた!」

 突然貴斗が頭を下げた。

「え?あ・・・・・・私こそ、ごめんなさい!」

 翠も慌てて頭を下げる。頭を下げて、二人で顔を見合わせた。

「ふっ!」

「ふふっ!」

 二人同時に吹き出した。

 貴斗と翠は自然に手をつないで歩く。昨日のデートでしたかったこと。

(こういうところが本当に好きだな。こんなに貴斗のことが好きだなんて、絶対に言えないけどね。)

 心の中で、翠は静かに敗北宣言をしていた。きらきらとした瞳を貴斗に向けながら。



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