第6章 中国戦役
紀元前310年
マケドニアの東部方面軍は、インドを橋頭堡に120艘もの軍船を率いて中国大陸へ上陸した。しかし、韓・趙・魏・楚・燕・斉・秦の七か国は連合して中国大陸を侵略するマケドニア軍の迎撃を図った。特に、秦の軍隊は七つの国の中で最も強大であり他の六つの国から恐れられていた。しかし、マケドニア軍の中国遠征で秦と一時和睦することになった。秦軍を主力に中国連合軍が結成された。連合軍は、マケドニア軍がこれまで戦ってきた敵以上に強大になっていた。
マケドニア軍は、韓の都・新鄭で韓・斉軍と大規模な攻防を繰り広げていた。新鄭の戦いで、マケドニア軍は韓・斉軍に圧勝した。韓の王・宣恵王は、新鄭の陥落と同時に自ら首を切り落として命を絶った。こうして、韓は滅亡した。
続いて、セレウコスのマケドニア軍は趙の都・邯鄲で武霊王の趙軍と激突した。趙軍は、武霊王の指揮下マケドニア軍を焦土戦術で迎撃した。また、趙軍はマケドニア軍の大半の兵力を削ろうと図った。マケドニア兵は、趙軍の武霊王の額に矢を放ち剣で首を刎ねた。邯鄲は、遂に陥落して趙は滅びた。
韓と趙が滅びると、中国連合軍の間では不協和音が生じてきた。秦は、連合軍を離脱して魏と楚を滅ぼしてマケドニア軍に対抗しようと図った。燕の昭王は楽毅にマケドニア軍の迎撃の指揮権を委ねた。昭王は、それまで対立状態だった斉と同盟を結び連合軍を結成した。
燕・斉連合軍は、勇将カッサンドロスのマケドニア軍の奇襲を図った。しかし、楽毅と孟嘗君は手痛い失敗を犯した。なんと、マケドニア軍の動きを読めずに昭王の命令通りに動いてしまいマケドニア軍の反攻に遭い、壊滅してしまった。カッサンドロスは、楽毅との一騎打ちを制した。燕の都・薊は陥落して、燕は滅亡した。
一方、秦は斉を攻めて勢力を拡大していた。斉の王・宣王は、急遽孟嘗君を呼び戻した。秦軍は、斉軍と王都・営丘で攻防を展開した。結果、斉軍は秦軍の圧倒的軍事力の前に敗れて孟嘗君の戦死で完全に壊滅した。こうして、残るは秦一国のみであった秦の圧倒的軍事力を恐れたカッサンドロスは、秦と決戦を行う前に中国を南下して朝鮮半島に侵入した。朝鮮半島を支配していた箕子朝鮮軍は、マケドニア軍の圧倒的兵力の前に敗れて降伏した。こうして、箕子朝鮮は滅びてしばらくマケドニアに統治されるのであった。その後、朝鮮にマケドニア軍やギリシャ人の移民によりヘレニズム文化が広められた。