クジラを捕る子猫。
目が覚めたら、酷い雨。まだ夜かと思う暗さだが、目を凝らせばベッドサイドのペンギンの目覚ましはいつもなら目を覚ます時間を指していた。
休日だから二度寝したっていいのだけど、眠いのに、窮屈で眠れる気がしない。
クジラが陸に打ち上げられてる。
ペンギンの目覚ましを確認する時に目に入っていたけど、あんまり認識したくなかった。大きな図体の向こうのペンギンさんがいつもより小さくて可愛い。
「いつ帰って来たのよ」
寝起きのつぶやきはかすれて、きっとあなたが起きてても届かない。
シングルベッドに二人は狭い。まして、私は中肉中背だけど、長身の細マッチョのあなたには小さいでしょう。何だか部屋まで狭く見える。
壁に押しやられて窮屈よ。ぺちぺちと腰に回った腕を叩けば、手探りでうるさい手を取って、指を絡めて捕まえられた。
でも目はつぶったまま、寝息だって憎たらしい程健やか。
クジラさん、クジラさん。ねえ、あなた床に寝てって言ったでしょう。狭いんだから。ちゃんとお布団だって買ってあげたのに。
合い鍵を渡したし、いつ来たっていいけど。私、クジラさんがベッドに上がるのは許してないわよ?
ゆるい拘束をほどいて、手足を縮めた大きな身体を乗り越えて、ベッドから降りる。
短く刈った髪は硬い。男らしいあごにはチクチクしたヒゲ。ちょっといかめしいお顔は寝てる分ゆるんで、私にはあなたは可愛いクジラさん。
私を可愛い子猫みたいだと言ったあなたにいたずら……じゃなくて、許可も得ずにベッドに上がったあなたにおしおきです。
ピンクの口紅片手に、ベッド脇にある鏡台に映った私がクスクスと笑った。
*
玄関のドアを開けると、幾重にも雨のカーテンが重なる様な、滝の様な雨にけぶっていた。
おあつらえ向きに酷い雨。
開こうとした傘を畳んで傘立てに戻して、私はレインコートのフードを被る。
「もういいかい? まーだだよ」
そして、時を待った。
――起きろ、朝だよ! 起きろ、朝だよ! 起きろ、朝だよ!
もたれたドア越しに可愛くて生意気な男の子の声。
それを聞いて、私は走り出す。アパートの外廊下を抜けるのは一瞬。階段を滑らないように駆け下りて、まだ眠る休日の住宅街を突っ切る。
水を張ったアスファルトをレインブーツが蹴り、バシャバシャしぶきを上げ続けた。輪のように跳ね上がった水は一瞬だけクラウンを作っているかも知れない。
殴るような雨の中を突き進む。たくさんの王冠を作って、蹴散らして。私は駅前通りに来た。
こんな酷い天気に、私以外人っ子一人歩いてやしない。それでもファーストフードやコンビニは店を開けて、煌々と明かりをこぼしてる。
歩道橋の階段の下、鉄柱にもたれてようやく止まった私は息を弾ませながら、ポケットの中で鳴る携帯を叩いて、もういいよ、とつぶやいた。
早く来て。海みたいだよ。光が透過しにくい海の底みたい。クジラさん、この中を泳いでここまで早く来て。私を見付けて。
レインブーツは中に染みないけどつま先が冷たいし、レインコートは空気を通しにくくて蒸れて暑い。安くて可愛いから買ったんだけど、もう少し奮発するべきだったかな。
この口紅も。
クジラさんに一番に見せたくて、ずっと使うのが楽しみだった。
ねえ、似合うかな。きっと雨に濡れて酷い顔だけど。そんなの、あなただってこの中を走ったら同じだもの。同じになる。
わくわくする。
チカチカと、まるで蛇みたいに墨汁の様な雨雲の中を稲光が泳ぐ。線香花火の様に弾け。轟音が降る。
酷い天気。でも素敵。この中をあなたが来たら。
合い鍵を渡して、半年ずっと待ちぼうけ。待ちくたびれて、鳴らない携帯に幾度も溜息ばかり吐いて。降り積もった溜息で溺れてしまいそうだった。
なのに。目が覚めたら、窮屈で。ベッドに入ったらダメだよってあんなに言ってあったのに、勝手に私を抱き枕にして。自分だけ幸せそうに寝てるなんて。
「クジラさんのバカ」
タンクトップとカーキ色のカーゴパンツ。寝てた時のままの格好でずぶ濡れで、何故か道の向かい側からキョロキョロと鋭い目が必死に探してる。
どこ探してたの。バカ。
息を弾ませて、筋肉の乗った厚い胸が大きく上下する。鋭い目の奥が心配でいっぱいだ。
ずるい。あんな目をしてたら許してしまう。
「かやこ!」
かやこ、かやこ、とクジラさんは鳴く。
迷子みたいに。ああ違う、迷子は私だ。
クジラさん。迷子の子猫はここだよ。
唇をキュッと噛んだ私を、水を蹴立てるクジラさんの目が一度通り過ぎて、慌てて身体ごと戻って来る。
カッと細い目が見開かれて、歩道橋を駆け上る。何段飛ばしかはわからないけど、滑るから気を付けて!
五歩ぐらいで登って、十数歩で下りの階段に着いて、落ちてくる様なスピードで私の目の前に。あっという間だった。
ガン、と私の顔の直ぐ脇、鉄柱をクジラさんが殴った。低い震えが伝わってくる。
「……何やってる」
こんな雨の中、と。心配させて、胸がつぶれる程心配させて。そんな苦しい絞り出す声をさせてしまった。頬を伝う雨が泣いてるみたいだ。
でもね、クジラさん。私だって不安なんだよ。
「半年ぶりだね、クジラさん」
さびしかった。不安だった。
笑ったつもりの私の頬を、熱い雨が濡らす。一旦は飲み込むつもりだった、なじる言葉が止まらない。
「初めて会った場所で待ってるって、書いたのに。遅いよ」
泣き笑いの声が胸に閉じ込めてた苦しさを吐き出す。
雨の日に、ここで傘をくれた見ず知らずの人。呼び止める間もなく、人ごみをすいすいと泳いで行く人は、まるでクジラだとそう思ったの。
一週間後に偶然見かけたその人にお礼を言って、それから度々偶然が重なって出くわして。取引先が近くにあるからよくこの駅を使っていたのだという。
何となく話すようになって、お茶や食事をしたり、連絡先を交換したり。
仕事で接待して終電を逃したクジラさんを、家が近いからと泊めたのは、ちょっとはしたないが「あなたを好きです」という意思表示だった。結局泊めても何も起こらなかったが。でも、付き合いましょう、ということにはなった。
それから度々、終電を逃したクジラさんを泊めて、かたくなに毛布一枚で床に転がる彼に、いいもん、ベッドに上げてあげないんだから、とすねた私は布団を買ったのだが。
忙しいのは知ってる。たまにしか会えなくて、前回が半年も前。電話もメールもない。
「久しぶりで、迷った」
忘れるくらいほっとかれてましたよ。
「かやこ」
悪い、と謝ってくる目にほだされそうな気持ちもあるが、伸ばされた手を私は払う。驚いて開いた目に私は、はっきりと告げる。
「私は都合のいい女になるのは嫌です」
誠実さを示して。
そうでなければ。
クジラさんは苦渋の表情で額を押さえた。
「かやこは、都合がいい」
だから困る、とクジラさんは溜め息を吐いた。
「物わかりがいいし、忙しいと言うと直ぐ退く。会いたいとも、電話やメールをくれとすら言わない。連絡しないと、お前からはかけて来ない。半年もだ」
だから、まるで、俺だけが好きみたいで。ぼそぼそと、クジラさんはうつむいた。
いかめしいお顔なのに、本当に、気弱でダメな人。
「わがまま、言いましたよ。この酷い雨の中、追いかけて捕まえて欲しいって」
両手を伸べれば、力いっぱい抱き締められた。痛いなあ。でも、私の態度で不安にさせていたなら、痛み分けなのかな。
クジラさんも追いかけて捕まえて欲しかったのね。
あ、おヒゲがじょりじょりする。本当に、寝起きで来てくれたんだ。ごめんね。抱きしめ返すと、固い背はすっかり冷えてしまっていた。
「風邪引いちゃう。帰ろ?」
名残惜しげに身体が離される。代わりに手をつないで走り出す。
クジラさんが私の走る速さに合わせて、ついでに風避けになってくれている。こういうところは本当に出来る人だなあと思う。幸せだ。今なら嵐でもドンと来い!
雷と雨音に負けずに叫ぶ。
「今度から電話とメール攻撃しますのでよろしく!」
「……お手柔らかにな」
クジラさんは苦笑した。
その口元を見て、私も笑う。
「クジラさん、この口紅、どうですか?」
自分の唇を指でトンと叩く。
しげしげと見つめられる。
「……」
悪くない、という目をしてる。むっつりですか。誉めてくれてもいいのに。
「そういえば、鏡台、掃除が大変だぞ?」
「伝言と言ったら鏡! と思って」
「昨夜テレビでやってたのか?」
「一人で映画鑑賞してたの。お一人様も悪くないですよ?」
意地悪に言うと、クジラさんの目が泳いだ。
「鏡、見たのに。気付いてないんですか?」
クジラさんがおそるおそるといった様子で振り返る。その口元を見る度笑ってしまう。
「ふふ、クジラさん、可愛い……! 似合ってなくて可愛い、」
クジラさんが不思議そうに顔をぺたぺた触るのも、もうとにかく可笑しい。
走りながら笑うと息が吸えない。雨がのどに入ってむせた。酸素が足りない。
アパートにたどり着く前に、静かに眠る住宅街でゴホゴホむせながらしゃがみ込む。
大丈夫かと覗き込むクジラさんの唇を私はつっつく。
「クジラさん、私とおそろいにしてあげたの。嬉しい?」
その時のクジラさんのかお。
可哀想だから、たくましい首に腕を回して抱き寄せて、ちゃんと拭ってあげた。
私の口紅もハゲたけど。
子猫はいたずらだって本気。
遊びなら飽きたら止めるけど。
お気に入りの獲物は、絶対に逃がさないの。