詩人のささげた一輪
「私の一生分の詩を君に捧げよう、ああだから、どうか愛しているといっておくれ」
それは青年のプロポーズの言葉だった。
彼はさすらう吟遊詩人。彼女は代々その土地に根付く農夫の娘。
遊民である彼は、病弱で村の外に出れない彼女のために、年に数度村へ訪れては世界中の物語を伝え唄った。
青い一輪の花とともに彼が運んでくるのは、遠い地で起こった出来事や、騎士たちの物語。
それが習慣となり、二人が出会ったいつかの季節から七年の月日が流れた。
……その日村に訪れた詩人が彼女に捧げたのは、鮮やかな青の花ではなく淡い黄色の花束。
ともに送られた、吟遊詩人がいうにはあまりに陳腐な台詞。
緊張のためか少し震える声で継がれたそれに、されど青年の愛しい人は綻ぶような笑みで答えた。
町から町へ、国から国へ。
世界中を旅し、決してとどまる所を持たなかった彼が初めて永住の地を得た瞬間だった。
男は楽器を捨て、農具を手に取った。竪琴を奏でる指は土を耕すために。
かつて唄を紡いで出来た指先の肉刺は、鍬に持ち替えられ掌中に広がった。
それでも毎日欠かすことなく妻へ捧げられる詩だけが、彼が詩人でありし日の僅かな名残。
たとえ子は望めなくとも二人は幸せだった。
厳しくも暖かい日々はそれから駈けるように過ぎ、老人になった青年はいま、シワの刻まれた愛しい妻の手を握っている。
「詩をちょうだい。……そうね、愛の唄がいいわ」
ベットに横たわる老婆は眦を緩めると、静かに彼女を見つめる夫の頬に指を寄せた。
少し擦れた声で告げられたそれは、長年連れ添った日々の中一日とて忘れられることなく行われてきた約束。力なく頬に添えられた妻の手を、節くれだった両手が包み込む。
老人のしわがれ声で紡がれた詩は、震えを押し殺すように僅かにくぐもっていた。
それは感謝の唄だった。旅立ちの歌だった。
そして哀願の詩でもあった。
「……貴女が私の前から消えてしまうのが、今はただ恐ろしい」
その言葉を最後に締めくくられた詩を、静かに彼女は聞いていた。
いまわの際を前に、彼女の瞳は不思議なほど透き通り、凪いだ湖の水面を思わせた。
「……あなたに、ずっと返したかったものがあるの」
すべてが終わったら、古い戸棚の中の包みを開けてほしい。
そう懇願すると彼女は穏やかに目を眇めた。
夫の目元をぬぐう指先は、いつもと同じよう慈しみにあふれている。
彼の頬に水の粒はない。それでも彼女は彼の頬をぬぐい続けた。
「覚えていて愛しいあなた、私はずっと傍にいるわ」
そして、それが彼の聞いた彼女の最後の言葉だった。
心残りは、彼女の残した言葉だけだった。
すべてが終わった後。老人は戸棚の奥に、柔らかな布にくるまれたそれを見つけた。
包みを開け、大切に仕舞われていたそれを彼は震える腕に抱く。
そして声を詰まらせ、崩れ落ちるように座り込んだ。
飴色の光沢を放つ美しい楽器は、いつかの昔、彼が捨てたはずの竪琴。
何十年も相見えることのなかった、片割れ。
なのに、それは当時のまま、色あせることなく。
今にも音を奏でだしそうな竪琴は、彼女がいとしみ手入れしてきたのであろうと直ぐにでもわかった。
だだっ広い部屋の中で、老人は一人 肩を震わせた。
――――『ねえ、今日はどんな詩を唄ってくれるの?』
老人は鞄に僅かばかりの食糧を詰めると、コートを羽織り、昔に比べて随分と重くなった足取りで戸口へ向かう。
孤独な旅の連れはかつての相棒、古い竪琴。
もう戻ることのないだろう部屋の中を、わずかに目を細め眺めると彼はドアを開いた。
扉の先に見える空はかつて旅をしていた時よりも遠く、いつも見ていたはずの青と太陽が鮮やかに色付きで迫ってくる。
その濃密な色は、いささか老人には眩しすぎるほどだった。
家の傍の彼女の眠る石碑の周りには、寄り添うようにたくさんの花々が植えられている。
その石肌に彼女の頬を包むときのように触れ、老人はそのあふれるほどの花の中でひっそりと群生する、青い花に目を向けた。
――ふいにかつての彼女の姿が鮮明によみがえってくる。
彼女はあの花をいつだって宝物のように喜んだ。
いまになって迫りくる喪失の実感に老人は霞む目蓋を閉じた。
彼が再び目を開けたとき、そこにはもう空を写し取ったような鮮やかな青が風に揺れているだけだった。
「……いってくるよ」
コートを翻し、老人は足を踏みだした。
――――さあいざゆかん、
最後の旅路へ。