月になった獣
ある夏の夜のことでした。
追っ手から一匹の獣と少女が隠れておりました。
きらきら輝く月の光が、ひとすじ二人を照らしておりました。
少女の好きだった、獣の銀色に輝く毛皮は、無惨にも血と土で汚れ今は見る影もありません。
それでも凛とした瞳だけは変わらずに少女を見ていました。
「お逃げなさい」
獣はいいました。
少女は獣にしがみつき、頭を獣に押しつけると何度も首を横振ります。
「一人はいやだ」
少女には戻るところなんてありませんでした。
いつだって帰る場所は獣のそばだけでした。
親に捨てられ、兄弟に見捨てられ、獣まで少女をすてるのでしょうか。
詰めよる少女に獣は困ったように鳴きました。
「もう、おゆき。急がないのならお前なんか食べてしまうよ」
「食べればいい!」
少女は腕にこめた力を少しだけ強くしました。
「いきたくないっ……!」
行きたくない、生きたくない。
声は震えて、目の奥がつんと痛みます。
獣は少しだけ悲しさを滲ませた声で、静かに言いました。
「いいね、川に沿っておゆきなさい。そしたら私の知り合いがいる村へ行けるから。
そして、私を助けに来ておくれ。あいつらに見つからないように、急ぐんだよ」
それは、やさしい言葉でした。でも有無を言わせない強い響きです。
もうこれでお別れなのだ、そう悟るには十分なだけの。
少女はいよいよ悲しくなって、我慢していた涙が一つこぼれました。
獣は涙をなめとると、ちいさく微笑みます。
「いきなさい」
少女は走りました。走って、走って、走って足は草や石で傷だらけになりました。体もかすり傷でいっぱいです。
それでも決して止まらず走り続けました。
だって、獣のやさしい嘘だとわかっていたのです。
いくら獣でも、あんなところに一人残されたら助かりません。
止めようと目元を乱暴に拭っても、次から次へと涙はこぼれてきます。
嗚咽だけは漏らさないように、走って、走って、走って。
そうして、一つの小さな村にたどりつきました。
空は白み、薄明るくなっていました。
ある村に、獣に育てられた少女がいました。
ながい長い月日が経ち少女は大人になって、家族もできて、いつしか老婆になりました。
老婆が天に召された夜。
その夜は不思議なほど、月が青白く光り輝いていました。
漆黒の夜空にぽつんと、まるで獣の爪のような銀色の月が。
そしてもっと不思議なことにその日夜空を見上げた者は皆一様に、ひとつの小さな小さな星が月に向かって流れてゆくと言うのです。
空の端に落ちていくのではなく、月に向かって駈けるように。
みんなが寝静まった静かな頃。
小さな星はくるんと宙返りをして、銀色の獣になりました。
そして月を追いかけるように、空の向こうへ消えてゆきました。
遠い昔のお話です。