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預けたもの

作者: だんご
掲載日:2026/03/27



 記憶を預ける場所がある。


 消すのではない。預けるのだ。どこかに保管されていて、取りに行けば返してもらえる。たぶん。私はそう説明を受けた。いつだったかは覚えていないが、説明を受けたこと自体は覚えている。


 私はそこを何度か利用している。何度か、というのは正確な回数を覚えていないからだ。五回かもしれないし、もっとかもしれない。


-----


 今の生活は穏やかだ。


 朝、目が覚める。珈琲を淹れる。トーストを焼く。一人分。窓を開けると、隣の家の庭から金木犀の匂いがする。仕事へ行き、帰ってきて、夕食を作り、本を読んで、眠る。


 特に不満はない。苦しみもない。寂しさも、たぶんない。


 ただ、ときどき部屋が広いな、と思う。


-----


 月に一度、あの場所に行く。


 電車で三駅。駅から歩いて七分。通い慣れた道だ。なぜ通い続けているのかと聞かれると、少し困る。何かを預けに行っているのか、確認しに行っているのか、自分でもはっきりしない。


 ただ、行かないと落ち着かない。歯医者の定期検診みたいなものだと思っている。


-----


 施設はいつも静かだ。


 白い壁。低い照明。受付には女性が一人。名前を言うだけで通される。保険証も、予約番号もいらない。


「いつもありがとうございます」


 受付の女性は微笑む。柔らかい笑顔だが、目は事務的だ。私のことを覚えているのだろう。何度も来ているのだから。


 待合室には誰もいない。いつも誰もいない。たまたまなのか、そうなっているのかは分からない。


-----


 奥の部屋に通される。


 白い椅子。小さなテーブル。向かいに座った担当者が、いつもと同じ穏やかな声で聞く。


「今回も同じ内容ですか」


 同じ内容。その言葉に、何かが引っかかる。同じ内容ということは、前にも同じものを預けたことがあるのか。預けたのに、また預けるということは、どういうことなのか。


 戻ってきている、ということだろうか。


「……はい。同じもので」


 深く考えないことにした。


-----


 手続きはいつも短い。


 椅子に座ったまま、目を閉じる。額のあたりに冷たいものが触れる。機械なのか、手なのか。確かめたことはない。


 少しだけ、水の底に沈むような感覚がある。息が深くなる。何かがほどけて、離れていく。何が離れていくのかは分からない。分からないまま、それは終わる。


「お疲れさまでした」


 目を開ける。部屋は変わらない。何も変わっていない。


-----


 帰り道、体が軽い。


 駅までの七分が短く感じる。空が高い。風が心地いい。理由のない開放感がある。重いものを降ろしたあとの、あの感じ。


 電車の窓に映る自分の顔を見る。普通の顔だ。疲れてもいないし、悲しくもない。


 これでいい、と思う。


 何がいいのかは分からないが、これでいい。


-----


 数日後。


 仕事の帰り、いつもと違う道を通った。理由はない。気まぐれだ。


 住宅街を抜けて、小さな公園の前を通りかかったとき、足が止まった。


 ブランコが二つ。砂場。滑り台。どこにでもあるような公園だ。見覚えはない。来たことがあるかどうかも分からない。


 でも、足が止まった。


 しばらくそこに立っていた。何を待っているのかも分からないまま。風がブランコを少しだけ揺らしていた。


 鎖の軋む音が、妙に耳に残った。


-----


 翌週、スーパーで買い物をしていたとき、店内放送が流れた。


「迷子のお知らせです。ミナトくん、三歳のミナトくん――」


 手が止まった。


 何も思い出せない。何も浮かばない。ただ、その名前が耳の中で反響している。心臓が少しだけ速くなっている。体が何かを知っている。頭には何もないのに。


 放送はすぐに終わった。母親が見つかったらしい。私はカゴの中の豆腐を見下ろして、しばらく動けなかった。


-----


 久しぶりに会った同僚に、昼食の席で言われた。


「なんか変わったな」


「そうか?」


「うん。前はもっと……なんだろう。忙しそうだった。今は落ち着いてるっていうか。すっきりしてるっていうか」


「歳かな」


「いや、そういうんじゃなくて」


 同僚はそれ以上言わなかった。代わりに味噌汁をすすって、別の話を始めた。


 私は笑って流した。何が変わったのかは分からない。何かが減ったのだとしても、減ったものの名前を知らなければ、困ることはない。


-----


 ある夜、眠れなくて部屋の中を歩いた。


 本棚。テレビ。テーブル。冷蔵庫。どれも自分のものだ。見慣れている。


 ただ、クローゼットの奥に、使っていない棚がある。空の棚。何も置いていない。なのに、埃がほとんどついていない。以前は何かが置いてあったのだろうか。


 棚の上を手で撫でる。指先に、かすかに甘い匂いがした気がした。クリームのような。石鹸のような。赤ん坊の頭の匂いに似ている。


 ――なぜ、そんなものを知っているのだろう。


 手を下ろした。窓を開けて、夜の空気を吸った。考えすぎだ。


-----


 もう一度、施設に行った。


 月の予定よりも早い。受付の女性は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに通してくれた。


 奥の部屋で、担当者に向き合う。


「今日は少しお聞きしたいことがあって」


「はい」


「私は……何を預けているんでしょうか」


 担当者は少しだけ間を置いた。表情は変わらない。


「詳しい内容をこちらからお伝えすることは、規定によりできません。ご本人の意思で預けられたものですので」


「でも、私は内容を覚えていない」


「ええ。預けたのですから」


 当然のことのように言う。預けたのだから覚えていない。覚えていないから聞いている。でも教えられない。


 沈黙が落ちた。


 担当者は少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。


「大切なものほど、預けたくなるものです」


 抑揚のない声だった。慰めでも、忠告でもない。ただの所見のようだった。


-----


 帰り道、電車に揺られながら考えた。


 大切なもの。大切なものとは何だったか。


 思い出そうとしているのではない。もう思い出せないことは分かっている。ただ、輪郭だけでも掴めないかと思った。


 失ったのではない。自分で手放したのだ。


 つらかったから。重かったから。抱えていられなかったから。理由は分からないが、理由があったことだけは分かる。理由がなければ、何度も預けに行ったりはしない。


 電車が駅に着く。ドアが開く。冷たい空気が入ってくる。


 立ち上がって、降りる。


-----


 家に帰る。


 鍵を開けて、靴を脱いで、電気をつける。広い部屋。一人分の食器。一人分の洗濯物。


 冷蔵庫を開ける。昨日の残りの煮物を温める。食べる。片づける。歯を磨く。


 普通の夜だ。


 寝室に向かう途中、廊下で足が止まった。


 右側のドア。使っていない部屋。ずっと閉めたままだ。物置だと思っていた。いつから閉めていたのか、覚えていない。


 ドアノブに手をかけようとして、やめた。


 理由は分からない。ただ、開けてはいけない気がした。開けたら、何かが戻ってきてしまう気がした。戻ってきたら、また預けに行かなければならない気がした。


 手を下ろして、寝室に入った。


-----


 布団に入る。目を閉じる。


 暗闇の中で、何かが胸のあたりにある。痛みではない。重さでもない。もっと淡い、輪郭のないもの。


 名前を呼ばれた気がする。自分の名前ではない。もっと短い、柔らかい音。「ぱ」で始まる、一音。


 何も思い出せない。何も浮かばない。


 でも、胸が少しだけ痛む。


 ――きっと、大切なものだったのだと思う。


 目を開けても天井が見えるだけだ。静かな部屋に、静かな呼吸だけが満ちている。


 明日もまた、同じ朝が来る。珈琲を淹れる。トーストを焼く。一人分。


 それでいい、と思う。


 それでいいと思えるように、私はあの場所に通っている。

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