預けたもの
記憶を預ける場所がある。
消すのではない。預けるのだ。どこかに保管されていて、取りに行けば返してもらえる。たぶん。私はそう説明を受けた。いつだったかは覚えていないが、説明を受けたこと自体は覚えている。
私はそこを何度か利用している。何度か、というのは正確な回数を覚えていないからだ。五回かもしれないし、もっとかもしれない。
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今の生活は穏やかだ。
朝、目が覚める。珈琲を淹れる。トーストを焼く。一人分。窓を開けると、隣の家の庭から金木犀の匂いがする。仕事へ行き、帰ってきて、夕食を作り、本を読んで、眠る。
特に不満はない。苦しみもない。寂しさも、たぶんない。
ただ、ときどき部屋が広いな、と思う。
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月に一度、あの場所に行く。
電車で三駅。駅から歩いて七分。通い慣れた道だ。なぜ通い続けているのかと聞かれると、少し困る。何かを預けに行っているのか、確認しに行っているのか、自分でもはっきりしない。
ただ、行かないと落ち着かない。歯医者の定期検診みたいなものだと思っている。
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施設はいつも静かだ。
白い壁。低い照明。受付には女性が一人。名前を言うだけで通される。保険証も、予約番号もいらない。
「いつもありがとうございます」
受付の女性は微笑む。柔らかい笑顔だが、目は事務的だ。私のことを覚えているのだろう。何度も来ているのだから。
待合室には誰もいない。いつも誰もいない。たまたまなのか、そうなっているのかは分からない。
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奥の部屋に通される。
白い椅子。小さなテーブル。向かいに座った担当者が、いつもと同じ穏やかな声で聞く。
「今回も同じ内容ですか」
同じ内容。その言葉に、何かが引っかかる。同じ内容ということは、前にも同じものを預けたことがあるのか。預けたのに、また預けるということは、どういうことなのか。
戻ってきている、ということだろうか。
「……はい。同じもので」
深く考えないことにした。
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手続きはいつも短い。
椅子に座ったまま、目を閉じる。額のあたりに冷たいものが触れる。機械なのか、手なのか。確かめたことはない。
少しだけ、水の底に沈むような感覚がある。息が深くなる。何かがほどけて、離れていく。何が離れていくのかは分からない。分からないまま、それは終わる。
「お疲れさまでした」
目を開ける。部屋は変わらない。何も変わっていない。
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帰り道、体が軽い。
駅までの七分が短く感じる。空が高い。風が心地いい。理由のない開放感がある。重いものを降ろしたあとの、あの感じ。
電車の窓に映る自分の顔を見る。普通の顔だ。疲れてもいないし、悲しくもない。
これでいい、と思う。
何がいいのかは分からないが、これでいい。
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数日後。
仕事の帰り、いつもと違う道を通った。理由はない。気まぐれだ。
住宅街を抜けて、小さな公園の前を通りかかったとき、足が止まった。
ブランコが二つ。砂場。滑り台。どこにでもあるような公園だ。見覚えはない。来たことがあるかどうかも分からない。
でも、足が止まった。
しばらくそこに立っていた。何を待っているのかも分からないまま。風がブランコを少しだけ揺らしていた。
鎖の軋む音が、妙に耳に残った。
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翌週、スーパーで買い物をしていたとき、店内放送が流れた。
「迷子のお知らせです。ミナトくん、三歳のミナトくん――」
手が止まった。
何も思い出せない。何も浮かばない。ただ、その名前が耳の中で反響している。心臓が少しだけ速くなっている。体が何かを知っている。頭には何もないのに。
放送はすぐに終わった。母親が見つかったらしい。私はカゴの中の豆腐を見下ろして、しばらく動けなかった。
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久しぶりに会った同僚に、昼食の席で言われた。
「なんか変わったな」
「そうか?」
「うん。前はもっと……なんだろう。忙しそうだった。今は落ち着いてるっていうか。すっきりしてるっていうか」
「歳かな」
「いや、そういうんじゃなくて」
同僚はそれ以上言わなかった。代わりに味噌汁をすすって、別の話を始めた。
私は笑って流した。何が変わったのかは分からない。何かが減ったのだとしても、減ったものの名前を知らなければ、困ることはない。
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ある夜、眠れなくて部屋の中を歩いた。
本棚。テレビ。テーブル。冷蔵庫。どれも自分のものだ。見慣れている。
ただ、クローゼットの奥に、使っていない棚がある。空の棚。何も置いていない。なのに、埃がほとんどついていない。以前は何かが置いてあったのだろうか。
棚の上を手で撫でる。指先に、かすかに甘い匂いがした気がした。クリームのような。石鹸のような。赤ん坊の頭の匂いに似ている。
――なぜ、そんなものを知っているのだろう。
手を下ろした。窓を開けて、夜の空気を吸った。考えすぎだ。
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もう一度、施設に行った。
月の予定よりも早い。受付の女性は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに通してくれた。
奥の部屋で、担当者に向き合う。
「今日は少しお聞きしたいことがあって」
「はい」
「私は……何を預けているんでしょうか」
担当者は少しだけ間を置いた。表情は変わらない。
「詳しい内容をこちらからお伝えすることは、規定によりできません。ご本人の意思で預けられたものですので」
「でも、私は内容を覚えていない」
「ええ。預けたのですから」
当然のことのように言う。預けたのだから覚えていない。覚えていないから聞いている。でも教えられない。
沈黙が落ちた。
担当者は少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。
「大切なものほど、預けたくなるものです」
抑揚のない声だった。慰めでも、忠告でもない。ただの所見のようだった。
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帰り道、電車に揺られながら考えた。
大切なもの。大切なものとは何だったか。
思い出そうとしているのではない。もう思い出せないことは分かっている。ただ、輪郭だけでも掴めないかと思った。
失ったのではない。自分で手放したのだ。
つらかったから。重かったから。抱えていられなかったから。理由は分からないが、理由があったことだけは分かる。理由がなければ、何度も預けに行ったりはしない。
電車が駅に着く。ドアが開く。冷たい空気が入ってくる。
立ち上がって、降りる。
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家に帰る。
鍵を開けて、靴を脱いで、電気をつける。広い部屋。一人分の食器。一人分の洗濯物。
冷蔵庫を開ける。昨日の残りの煮物を温める。食べる。片づける。歯を磨く。
普通の夜だ。
寝室に向かう途中、廊下で足が止まった。
右側のドア。使っていない部屋。ずっと閉めたままだ。物置だと思っていた。いつから閉めていたのか、覚えていない。
ドアノブに手をかけようとして、やめた。
理由は分からない。ただ、開けてはいけない気がした。開けたら、何かが戻ってきてしまう気がした。戻ってきたら、また預けに行かなければならない気がした。
手を下ろして、寝室に入った。
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布団に入る。目を閉じる。
暗闇の中で、何かが胸のあたりにある。痛みではない。重さでもない。もっと淡い、輪郭のないもの。
名前を呼ばれた気がする。自分の名前ではない。もっと短い、柔らかい音。「ぱ」で始まる、一音。
何も思い出せない。何も浮かばない。
でも、胸が少しだけ痛む。
――きっと、大切なものだったのだと思う。
目を開けても天井が見えるだけだ。静かな部屋に、静かな呼吸だけが満ちている。
明日もまた、同じ朝が来る。珈琲を淹れる。トーストを焼く。一人分。
それでいい、と思う。
それでいいと思えるように、私はあの場所に通っている。




