03 名を伏せた依頼
「あの子、ちゃんとやっているかしら……」
シエラを見送った後、シグレは店内に残り、閉めた店の片付けを続けていた。
テーブルを拭きながら、外の暗闇に目をやる。夜風に揺れる街灯が、静かに光を落とす。
ぼんやりとした思考の隙間に、最後の一人だろう、荷物を抱えた従業員のマリが顔をのぞかせいつもの笑みで挨拶をしてくれる。
「シグレさん、私、先にあがらせてもらいますね」
「ええ、わかったわ。お疲れさま、マリちゃん」
「お疲れさまです」
軽く会釈を交わし、マリを見送った後、シグレはふっとため息をついた。
シエラを心配していないと言えば、やはり嘘になる。
しかしそれは、この店の命運を左右する大事を彼が背負っているからであって、彼自身の命を案じているわけではない。
──そう思い込もうと、シグレは心の中で自分に言い聞かせる。
悩み事を消そうと頭を振り、「ま、なんとかやるでしょ」と呟くと、店の外からさっき帰ったはずのマリが、困惑したような表情で戻ってきた。
「シグレさん、すみません……あの……」
マリの後ろから、背の高い人物が現れる。
フードで顔を隠しているが、背筋の緊張と手の微かな震えから、ただならぬ気配が伝わる。
この時間に来るのは……依頼だろう。
フードの下には手入れの行き届いた金色の髪。
その気品ある立ち振る舞いと、微妙に隠された視線から、貴族であることは明らかだった。
シエラは別の依頼で席を外している。
話を聞くだけなら、自分一人で十分だろうと判断し、男を店の奥へ案内した。
マリには先に帰ってもらい、店内が二人きりになることを確認する。
「顔はこのままで構いませんか?」
依頼主の男はフードを手にかけ、外すべきかどうか迷うように指先を止めた。
その仕草ひとつで、彼がこの場にどれほどの緊張を抱えているかが伝わってくる。
「構わないわ」
シグレは即答した。
詮索しない、踏み込みすぎない──それがこの店の暗黙の流儀だ。
「ここでは、顔より言葉のほうが大事なの」
男はわずかに肩の力を抜き、フードから手を離したまま椅子に腰を下ろす。
ランプの淡い光が影を深く落とし、素顔は最後まで闇に溶けていた。
「……助かります」
低く、若い声。
慎重に選ばれた言葉の裏に、長い時間を耐えてきた気配が滲んでいる。
シグレは向かいの席に座り、布巾を畳む手を止めた。
「それで? 相談、というのは」
男は一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから決意したように懐へ手を伸ばす。
取り出されたのは、折り目だらけの紙切れだった。
「この印を持つ人物を、探していただきたい」
卓上に置かれた紙を見た瞬間、シグレの指がわずかに止まる。
焼け焦げたような歪な紋様。忘れようとしても忘れられない印。
「……随分と、厄介なものね」
視線を上げると、フードの奥からじっとこちらを見つめる気配がした。
肯定も否定もない。ただ、覚悟だけがそこにある。
「理由は、聞かないほうがいい?」
「はい」
即答だった。
「聞かれれば嘘をつくことになる。それは、あなたにとっても不利益だ」
シグレは小さく息を吐き、椅子の背にもたれた。
「正直ね。それは嫌いじゃないわ」
紙を指先で押さえながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「見つかる保証はない。それに、この印が意味するものも、あなたが思っている以上に重い」
「承知しています」
男の声に、揺らぎはなかった。
「それでも……探さなければならないんです」
ランプの火が、かすかに揺れる。
その揺らぎが、これから始まる厄介な夜を示唆しているようで、シグレは思わず苦笑した。
「……本当に、忙しくなりそうね」
静かな店内に、運命の歯車が軋む音だけが、確かに鳴り始めていた。




