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02 月影の依頼人

月が高く上がり、獣たちが静まり返った夜。


家々の壁の間をするりと抜ける一つの影があった。その影は街の門を潜り抜け、静寂の外へと向かう。


一見静かな夜に見えるが、木々が生い茂る森の中では夜鳥が忙しなく鳴いている。


フードを深く被り、足音を消して進む影は、町外れの古びた教会の前で立ち止まった。


夜の静けさに不釣り合いな、どこか異様な気配が漂っている。


「ここ……か……?」


扉の前で一瞬ためらいながらも、その影──シエラは重く軋む扉を押し開ける。


もう使われなくなった古びた教会の天井には孔が開き、そこから月光が光線のように差し込んでいた。

光を避けながら足を進めると、腐った長椅子に一人の人物が座っているのが見えた。


(生きている……よな)


こんな場所を依頼内容を伝える場所として指定してきている人物だ。ただの貴族ではない事は明らかだった。


不安を胸に抱えつつも、シエラは慎重に歩を進める。本当の依頼主かどうか、まずは確認しなければならない。


依頼主との間で事前に決めていた合言葉を口にする。


「今日はお一人ですか?」


問いかけに、長椅子に人物は振り返ることなく応える。


「ええ、良いリシャールが入ったと聞いて来てみたのですが」


(男か……他に人影はなく、言葉も間違いない。この人物で間違いないようだ)


「それでしたら、ウチにもありますよ。とっておきのが」

「そうですか、では伺ってもよろしいですか?」


男は振り返りフードを取り、肩まで伸びた髪を綺麗に切り揃えているようで、張り付けた笑顔を見せる。

首元に見える襟は豪華ではなく、使用人らしい質素な装いだった。


「おや」


顎に手を当て俯く男。


「私はてっきり、噂に聞く剛腕で逞しい大柄な男性が来るのかと思っておりました」

「拍子抜けですか?」

「いいえ、まさか。期待通りです」

「それはよかった」


男は微笑むと、距離を詰めてくる。

シミひとつもない手袋をはめた手を、優雅に差し出してくる。


「ここで長話は無用です。お話する場を設けておりますので、どうぞこちらへ」

「はい」


(武器は持っていないか……他に人の気配もないようだし)


武器を持たないことから、相当腕の立つ依頼主であることは明らかだった。


そう考えていると、どこからともなく黒い馬車が停まる。


「どうぞ」と促され、シエラは言われるまま乗り込む。

馬車が揺れる中、慎重に問いを重ねる。


「失礼ですが……貴方が今回の依頼主でしょうか?」

「いえ、私はただの侍従にございます」

「そうですか、失礼いたしました」


やはりそうか。

貴族にしては所作が違って見えたが、使用人と聞けば納得できる。


「私からも一つよろしいですか?」

「はい」

「もし、この度の依頼をお引き受けにならなかった場合、この夜の事は一切お忘れください」

「もちろんです。私の仕事は信頼で成り立っていますから」

「それはよかった」


使用人の男は口元を手で隠し微笑む。

馬車は暗い森を進み、揺れに身を委ねるシエラは自然と思考を巡らせた。


(どれほどの権力者が関わっているのだろう……)


やがて静かに馬車は止まる。


外装を押さえ、砂利の上に足を下ろすと目の前に広がる光景に目を疑った。


整えられた道、咲く季節の花、そしてこの暗闇の中でもわかるほどの大きな邸宅──

灯された明かりの数だけで、この人物の地位の高さがわかる。


「主がお待ちです。お荷物は?」

「ありません、これだけです」

「かしこまりました。ではご案内いたします」


八方から姿の見えない視線が絡みつくのを感じながら、シエラは使用人の男と共に館へと足を踏み入れた。


(歓迎ムードではなさそうだな)


土ひとつとない真っ赤な絨毯を踏み、奥へ進む。


とある扉を開けると、中央に長机、両端にソファ──その奥に一つの影があった。


「会えるのを楽しみにしていたよ、シエラ」


月光に透けてみえる長い髪を下でまとめ、襟の立った服を優雅に着こなすその姿。


今回の依頼主で間違いないだろう。


「私も待ち遠しく思っておりました」

「口が上手だね」

「嘘ではございません」

「それは嬉しいね、レーヴェ、彼にお茶を」

「はい、かしこまりました」


レーヴェ、先ほどまでシエラを案内していた使用人が部屋を出て、依頼主とシエラ二人きりになる。

正確に言えば、二人()()ではないこの視線を向ける者たちの頭数は数えていないが。


重厚なソファに腰を下ろすと、依頼主は静かに告げた。


「シエラ、キミの噂は聞いているよ。どんな依頼も完璧にこなす、とね」

「そうおっしゃっていただけるなんて光栄です」

「謙遜しなくていい。キミにはこれまで、私の仕事を幾度となく任せてきたのだから。ほら、この間の夫婦仲を裂けという依頼とかね」


その言葉に、シエラはわずかに目を伏せた。


「それに、綺麗な言葉遣いだ。誰かに習ったのかな?」

「……独学です。様々な仕事をこなす中で自然と身につきました」


一瞬、胸が高鳴る。

言葉遣いまで見透かされるとは思っていなかった。


「そうなんだね。やはり今回の依頼、キミに任せて正解だったようだ」

「店主にも伏せていた内容でしょうか。詳細をお聞かせいただけますか?」

「実際に会ってから最終判断しようと思っていた。そろそろ言わないとね」


男は立ち上がり、ソファに隣り座ると肩に手を回す──

その仕草にシエラは動じない。

経験上、この手の者は依頼の相談に乗じて手を出すこともあるが、ここで動けば逆に弱みを握れる。


(言葉遣いを気にしていたようだし……今回は、単なる依頼ではないのか?)


男の顔が近づき、彼の解けた髪が頬をかすめる。


「こういうことは慣れているのかな?」

「いえ、まさか……貴方様が初めてです」


男は微笑むと、低く、しかしはっきりと告げた。



「依頼内容だが──皇国正統後継者、ヴィンターハイネ・ロージルを籠絡しなさい」














「…………はい?」










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