01 裏通りの灯
ロンデル帝国の裏通り、昼の喧騒が嘘のように静まり返る頃、その店はそっと明かりを灯す。
「オーシャン」と名付けられたその店は、夜にしか扉を開かない紳士淑女のための隠れ家だった。
毎週変わる合言葉を告げ重厚な扉をくぐれば、柔らかなランプの光が木目のカウンターを照らし、空気にはほのかに酒と潮の香りが混じる。
グラスの中で氷が触れ合う澄んだ音が、静かな波のように店内に広がり、その合間を縫うように、男女の楽しげな笑い声と低い語らいが響いていた。
ここでは誰もが肩書きを脱ぎ捨て、夜に身を委ねる。ただ穏やかな時間だけが、ゆっくりと流れているのだ。
そんな店の中では様々な会話がされている。
レースのカーテンに囲まれたテーブルでは数人の婦人がある一冊の本について語り合っていた。
「こちら、もう読まれました?」
「もちろん拝読しましたわ」
「てっきり私、宰相様とくっつくとばかり……」
「わたくしは騎士団長かと……」
「あらわたくしはーー!」
頬を赤らめた婦人の声が大きくなる。
周りを気にするように目配せすると、真っ赤な紅を塗った口を大きく上げる。
「前回のお話で伯爵家や公爵家の縁談を断ってきたのにも理由があったってことね」
「ええ、ここまで作り込まれているなんて誰が考えていたかしら」
「皆さまに聞いて読んでみてよかったわ」
「でしょう!あぁ、早く続きが発売されないかしら」
「次は早くても来年になるそうよ」
『そんなぁ……』
残念そうにグラスを交わすご婦人たち。
この店で交わされる話が、もし王族の耳に入ったとしたら——そんな想像を、一度でもしたことがない者はいないだろう。
だが同時に、ここは「オーシャン」だ。多少羽目を外したところで咎められることはない。
否、咎めてはならない、という暗黙の了解が、この空間そのものに染みついている。
杯を傾けながら囁かれるのは、王族にまつわる噂話や、宮廷の裏で蠢く最近の動向。ここに足を運べば、帝国の表舞台では決して語られぬ真実の欠片が、自然と耳に入ってくる。
だからこそ、一見の客は固く断られる。
この店に迎え入れられるのは、口の重さと立ち居振る舞い、そのどちらも信頼に足ると認められた者だけだ。
裏通りにひっそりと佇むその実態は、——貴族たちがこぞって通う、秘密の社交場。
そう呼んでも、決して大袈裟ではなかった。
「シエラ!2番テーブル!」
「は〜い」
指名待ちの部屋から気だるげに出たところで、シグレに軽く背中を叩かれる。
「いった!シグレさん痛い」
「あんたシャキッとしなさいよ」
「今からしてたら表情筋がもたないんですよ」
「嘘ばっか。今からやってないとそのブサイクのままよ。もう一回叩かれたい?」
オーシャンの店主であるシグレは、シエラにとって命の恩人であり、義理の兄のような存在だ。この店で働く他の従業員に対しても対等に接しているため、従業員からの評判は悪くないらしい。
シエラは背中をさすりながら、光を通すレースのカーテンから呼んできた客の様子を見る。
他の貴族より、ひとまわり、いやふたまわり大きいその身体には特別そのサイズにしつらえた服が纏わりついている。指には金額も想像できないくらいの宝石を散りばめた指輪が鈍く光っていた。
眉をひそめて様子を伺っていると、「なるべく時間を稼ぎなさいよ」とシグレから耳打ちされる。
「わかってる」そう返すと、服にシワがないよう整え、少し肌を出す。
長年の付き合いといえども、店で働かせてもらっている以上、粗末な接客は許されない。
店主の期待に応えるため、膝を軽く曲げ、両手を胸に置く。
「お待たせいたしました」
「待っていたよ、シエラ」
目と目が合う瞬間、自然に微笑みが交わされる。こういう客には、ほんの些細な仕草だけで喜んでもらえることを、シエラはよく知っていた。
案の定、喜びに満ちた表情を浮かべた貴族の男は、テーブルに置かれたグラスに手を伸ばし、ゆっくりと酒を口に運ぶ。
「ここ数日、顔を見せられなくてすまなかったね」
その言葉には、君のために時間を作ってきたのだという意味が含まれている。
指に輝く大きな指輪が、わずかに光を反射した。シエラはその指にそっと手を絡め、自然に距離を縮める。
「旦那様が私のことを考えてくださるだけで、幸せにございます。それ以上は何も望みません」
「そうか……?控えめなところも素敵だ。実はな、言い訳をしてしまうと政務処理に手こずっていたんだ」
「そうだったのですね」
見た目に反してこの貴族の男は、この国の政治に関わる端くれである。
忙しいと口にこぼす日は大抵この店やってきて会議の内容を話してくれるのだ。情報漏洩もあったのもじゃないが。
「……今度は殿下が国民の税を下げようとされていてな。まったく困ったものだ」
「税を?」
現皇帝の嫡男であり、国民からは厚い信頼を寄せられているヴィンターハイネ・ロージル殿下。
ご婦人たちの間で密かに人気になっている物語の主人公も殿下がモデルだと言われているくらい人気なのだが、それを良しとしない元老たちがまた文句を言っているのだろう。
もちろん、この男も殿下が気に食わない派閥であり、こうして話を聞くのも増えてきた。
「私は反対だ。ただでさえ、使いもしない金を溜め込む余裕があるのヤツらの税を抑えろだと?バカバカしい。これも聖人君主の体裁を保つためだけなのだろうが、それを政治に持ち込むなんぞ。まったくこの先どうなることやら」
「……」
「お前もそうは思わないか?」
握っていた手の力がぐっと強くなる。
シエラは出てきそうになる言葉を飲み込むと、何も知らぬふりで微笑み返す。
「……私はそのように恐れ多いことはお伝えできません。ですが……私は旦那様を信頼していますので、旦那様のお考えが私の思いにございます」
「そうかそうか!シエラ、お前ならそう言ってくれると信じていたぞ!」
がはがはと笑いながらグラスを空にし、豪快にテーブルに叩きつけた男はフーと息を吐きシエラを見つめる。
その視線を無視して飲み物を注ごうと手を出した瞬間、男が急に手首を握ってくる。
「旦那様?」
「……やはり、シエラ私はお前がほしい。どうだろう、この間の話は考えてくれたかな?」
「……」
(急に話を変えたかと思えばこの話か)
この間の話、というのは、この店を辞めてこの男の屋敷でこの男専用の男娼として暮らすというものだ。
一見いい話のように思えるが、待っているのは地獄でしかない。
それに、この店を辞められない理由があるため、どんな誘い文句でも断ってきていた。
この男も今まで男と同じく、自分の屋敷に自分だけのおもちゃとして留めておきたいのだろうが、おことわりである。
いつの間にかカウンターに戻っていたシグレの方を見ると、彼は呆れたように首を振り、別のテーブルへ向かって行った。
(SOSのつもりだったんだが。自分でなんとかしろってことか……仕方ない)
「——実に光栄なことです。しかし、私は穢れた身。旦那様のお側にいては、旦那様まで穢れてしまいます。それに……」
少し息を止めて手を男の胸に置く。
「奥様も、それを許さないでしょう?」
「アイツのことか?別に構わん。お互い私情に関わらないよう誓約を交わしてある。アイツがお前に手を出してみろ、すぐに離縁して実家へ送り返す」
拳をぎゅっと握りしめると、指輪が微かに弾けるように光った。
「……」
「アイツも別の男が良いらしいからな。私もそれに口は出していない」
「こんなに素敵な旦那様がいらっしゃるのに、別の方と……?」
「ああ。最近夜中に抜け出して何をしているのかと思ったら、ある荒屋に入って行ってな。……あの女、別の男と一緒だった」
「まさか……そんな……」
ひょいと指を動かし、隣へと導かれる。
肩が触れ合い、手が自然に絡まり、油の香る手がそっと頬に触れ、その温かさに、シエラは思わず目を伏せる。
遠くの方から「シエラ」と呼ぶ声が届くが、今はそれさえ遠く感じられた。
「このままここに居たいのですが、申し訳ありません。もう行かなくては」
「——もう行ってしまうのか?!」
「ええ。どうか、この夜だけは貴方様の夢の中の出来事だと思ってください。私のことも」
「それはできない、シエラ……!屋敷に来る件は店主にも話しておく!必ずお前を——!」
優雅にお辞儀をして席を離す。
表情は崩さず、さまざまなテーブルの横を通りながら、呼ぶ声には軽く断りを入れる。
そして、カウンターの裏へ回ると、盛大に椅子へ腰を落とした。
「帰ってきたなら早く連絡してください」
「あんまりにも楽しそうだったから、邪魔しちゃ悪いと思って」
「……」
「もしかしてバレた?」
「なわけないでしょう」
「やっぱりそうなのね。てっきりバレたかと思ったわ」
「俺を舐めないでください」
店内の灯りがゆらめき、氷がグラスに当たる音が静かに響く。
常連客たちの笑い声や軽い談笑が、まるでこの小さな秘密を包む布のように、シエラの周囲を柔らかく包んでいた。
シエラの仕事は、このオーシャンでの接待だけにとどまらない。
シグレが以前から手がけている、いわば裏の事業──その手伝いもしているのだ。
依頼の内容はさまざまで、時には一目置かれる貴族からの高難易度な仕事も舞い込む。そして、その難題をさばくのがシエラのもう一つの仕事だ。
実は、先ほどの男の奥方――つまり、あの荒屋へ足を運ばせた張本人はシエラだった。
別の貴族から「夫婦仲を破綻させろ」という依頼を受けており、そのため手段を選ばず、あの策を選んだのだ。
「はいはい——そういえば、これ」
——ドジャン!!
机の上に置かれた前金に、シエラは小さく息をのむ。
「なんですか、これ?」
「今日の依頼者の前金よ」
「これが!?」
「そう。随分と太っ腹でしょ」
「太っ腹って……本当に引き受けていい案件なんですよね?」
「…………ええ」
数秒間考えた後、シグレが他所を向いて返答したためシエラも心配になる。
「なんで間があるんですか」
「——ともかく、時間だけは遅れないようにね」
「シグレさんは行かないんですか?」
「依頼主は貴方と一対一で会うのを望んでいるから」
シエラは一度、胸の奥に溜まった息をゆっくりと吐き、前金へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、その重みがただの金貨ではないことを、否応なく思い知らせてきた。
キセルをくゆらせていたシグレが、ふと視線を寄越す。
煙越しに向けられたその目は、冗談も逃げ道も許さない色を帯びていた。
——軽い仕事ではない。
言葉にされずとも、それだけははっきりと伝わる。
シエラは小さく唇を噛み、感情を飲み込むようにして視線を伏せた。
これを受け取るということは、誰かの秘密を抱え込み、同時に、誰かの人生をわずかに、しかし確実に歪めるということだ。
それでも、立ち止まる理由はない。
静かに踵を返し、依頼主の待つ場所へと足を向ける。
店内ではランプの光と影が長く伸び、グラスに触れる氷の音が、夜の静寂を細く揺らしていた。
オーシャンの夜はまだ深い。
そしてその闇は、これから明かされる“彼の秘密”を、優しくも残酷に包み込んでいく。




