蠢くもの、語るもの
5年前に書いたものです
作中に吸血鬼と明言されない吸血鬼ものが好きなんです
紫色の浜辺に死体が漂着した。ここは紫色の貝が多く、貝殻が砂粒ほどの大きさになって堆積するので、紫浜と呼ばれている。地元の観光協会は恋人たちのスポットにしようと必死である。そこに、死体だ。形状も定かでない、よって人種年齢性別すべて不明の人間だったものが打ち上げられたのだ。
第一発見者は痴呆症の老博士だった。かつてメトロノームと呼ばれた、決まった時間に決まった場所へ現れる奇人だった。恍惚の人となった今もなお習慣は健在だ。竹製の杖を突き突き、紫浜を彷徨している。視界の隅に黒い塊が映る。アザラシ、という単語が頭に浮かび、かつての研究対象を思い出したのか歩調を速める。果たしてそれは、アザラシよりも二周りは小さい塊であった。生きているようには見えない。距離をおいて杖の先でそっとつつく。グンニャリした嫌な触り心地が杖を通して手に伝わる。と、突然、黒い塊が霧散し一斉に蠢いた。カサカサ、カサカサ、カサカサカサカサカサカサ……器用に生者を避けた蟲が散って、黒い塊と見えたものが顕になる。死体。水にふやけ蟲に食われ、おそらく海鳥にもつつかれた無残な死体であった。呆けた脳が理解するには時間がかかり、およそ5分後、大慌てで引き返し目についた通行人に助けを求めた。老いたメトロノーム氏が痴呆であるのは誰もが知っていたが、誰彼構わず大声を上げるような人ではなかったため、通行人はすぐに応援を呼んだ。
「蟲、蟲、死骸、紫浜、蟲が死骸……!」
何を言っているのかわからないが異常事態であることは伝わり、漁師、魚屋、駐在、渡し守ら男衆が駆けつけ、死体見聞と相成った。
身長は170cmほど、抜け落ちているが髪は長い、どこもかしこも破れているが仕立ての良かったであろう服、正体不明の漂流者。フナムシは散り終え後には紫の浜が残った。
「どうしよう……?」
「どうしようもなにも、死体だろ。陸に運んで埋めるなりしてやらにゃ」
「嫌だよお、こんなもの触るの」
「誰もお前を当てにしてねえよ。海で起きたことは海の男の仕事だ。どきな」
漁師の指揮のもと、駐在は荷車を取りに町へ、魚屋は神父を呼びに、渡し守は死体を車に乗せる道具を取りに、各々散らばり漁師も現場を離れた。大急ぎで走ったので、浜に埋まったガラスで足を切ってしまった。あとには無人の紫浜と、死体。
その時死体の腕が動いた。最初は微かに、やがてはっきりと腕を振り、蟲を追い払う動作。蟲どもは一斉に退いた。待っていたのだ。散り散りになった蟲どもは、まるで死体を敬っているように、その周囲を避けて這った。
曇天のもと日は届かず薄暗い浜。200m先から立ち上る血の匂いを嗅いだ。最後に食事をしたのはいつだったか思い出せない。そんなことはいい、血だ、健康な成人男性の血。少しアルコールの匂いもする。出血が多いのはそのためか。腐敗した脆い脚で立ち上がる。再び集まった蟲がカサカサ音を立てる。一歩、また一歩、蟲よりも拙い歩みで前進する。うずくまる漁師が見える。今行く、待っていろ、ああ血だ、血だ、血だ!
赤い血は浜の紫を塗り替えるほど流れている。
背後に、カサカサ、カサカサ、耳の奥をこじ開けてくるような無数の蟲の群れの音。
振り返るな、振り返るな、と祈るのに、体は勝手に後ろを向く。
サク、カサカサ、サク、カサカサ
足音と蟲の音が近づく。歩むたびにフナムシの大群が蠢く。フナムシだらけの死体が……まさかありえない、と否定も虚しく、一歩、一歩近づいてくる。
声も出ず体は石になったかのように、身じろぎもしない。死体の目が、赤い目が、妖しくぬめるように光った。
神様、神様、ああ神様
祈りはあげられぬまま血は流れた。
さて一連の出来事の後に残ったものは、赤紫の浜と真新しい死体。死体であれば何でも良い節操なしの蟲どもが、音を立てて集い出す。あっという間に黒い塊が、あたかも先程までと変わらぬような姿で横たわっていた。
「死体の位置が動いてないか?」
「ばか言え、そんなことあるもんか。一面紫だもんで見失っただけだよ」
「漁師は……?」
三人顔を見合わせ声を揃え
「酒場に逃げたな」
誰ともなく溜め息をつき、厄介な仕事に取りかかった。
板の上に死体を転がし、血を失った青ざめた漁師を見て叫び声を上げたのは、日頃女々しいと揶揄される駐在であったという。
さて、これは誰に聞いた話かって?頭を使えばわかるものを。
不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実。
私の話は信じるな。