八
「ご令嬢、今宵の星すら、あなたの瞳の輝きには嫉妬を覚えるでしょう」
「神話の美神たちが現代に現れたなら、きっとあなたのようなお姿でしょう」
「わたしはもう、あなたという旋律なしでは一日を過ごせそうにありません」
「わたしの心はもうあなたの調べに合わせて踊るばかりです」
エルネストは今夜、カスティーリョ夫人から情報を得るための「支払い」として提示された、社交界にデビューするご令嬢の相手役をつとめている。
はじめて言葉をかわすご令嬢で、相手は夜会デビューに相当緊張していたが、エルネストは絶好調だ。それもこれも、兄に覚え込まされた定型文を活用して会話しているからである。
——よし! きょうも定型文で会話できている! 定型文最強!
ダンスホールでご令嬢をリードしながら、エルネストはまったくちがうことを考えている。「マグダレナにしあわせになってもらいたい」という自分の願いをかなえる方法を、友人のイヴァンに相談したのだ。
「まずは、マグダレナに嫌悪にも近い感情をもっている王子の考えを変えないといけない」
イヴァンはわかりきったことを口にしたが、それはもっとも難易度が高い部分でもあるから、いちばん最初にあげておくべき課題だった。
「そのうえで、ぼくはパレジオス公爵家の悪事だってちゃんと暴いておきたいんだ」
エルネストはさらに加えたい条件をイヴァンに示す。
「それもどうしても必要なのか」
「必要だよ。公爵の悪事をそのままにしてマグダレナと王子が結婚したら、国のためにならない。ぼく個人の願いをかなえるために、そこまでのことはできない」
「個人の願いねえ。一割も自分の欲望がふくまれていない願いごとを、個人のものと言い切るのもどうなんだ?」
エルネストはイヴァンのその疑問には、まじめにこたえなかった。
「マグダレナがうわさ通りのひどい人間でない証拠は、もうじゅうぶんあるんだ。だから公爵家の罪を暴いたあと、マグダレナだけはそれに加担していなかったと示すことができれば……」
「それだって、ある種の賭けだ」
イヴァンはエルネストの楽観的展望を打ち砕く。
「人の気持ちは、そう簡単に変えられない」
たとえ、家柄と権力闘争という障害が排除されたとしても、王子がマグダレナを伴侶に望むかは未知数だ。
「それに、仮に公爵家が断罪によって没落したとして、そのあとにマグダレナ嬢と王子の結婚は成立するのか」
「わからない。でも、マグダレナは王子のことが好きなんだよ」
だからどうしても、一緒にいさせてやりたいんだ。
最後にはそう締めくくるしかなくなったエルネストのすがたを、イヴァンがあきれながら見ているのはわかっていた。
鼻先を、ご令嬢の香水のかおりがすべっていく。エルネストは顔をあげた。
もうすぐ今夜の役目も終わる。社交界デビューに固くなって緊張していたご令嬢を、うまくこの夜会の世界に送りだせたと思う。
「はじめての夜会はいかがでしたか? わたしはあなたが優雅に夜にはばたくお手伝いができたでしょうか」
幼さの残る顔をきらめかせて、ご令嬢は振りかえった。
「ええ、すばらしい夜でした」
「それはよかった」
「エルネストさまに、とてもすてきな言葉をたくさんいただいて……でも、どれも緊張せずに受け止めることができました」
彼女の顔は、晴れやかだった。
「わたし、先にデビューしたお姉さまがたにお聞きしていましたから。エルネストさまのお言葉ひとつずつは、まったく気にしなくていいと。いつかほんとうに恋をしたいときに出会った相手が、真実自分の言葉で話しているか、見極める練習になると」
「そう……」
エルネストのまわりからの評判なんてそんなものだ。それでも、プライドが高くて女性をうまくほめられない貴族の男は多いから、エルネストのような人間に、有用な情報を明かしてくれる令嬢やご夫人は多い。
それにあんなセリフ、言われ慣れていないと、いつか変な男に引っかかるかもしれない。その点、エルネストには他人を騙そうとする悪意はないからまだマシだ。
情報を聞き出すために近づいたご令嬢と、どうにかなろうと思ったことはない。
だれかとちゃんと、恋をしてみたことはない。これは仕事だから。
エルネストのことばは気にしなくていい。本気にしなくていい。頭のなかで、令嬢の声が反響する。
——ぼくだって、自分のことばに気持ちがこもっているとは思わない。だからべつに悲しくない。
でもいつか、ほんとうに好きな人ができたとき、その人はぼくの愛のことばを信じてくれるだろうか。
令嬢とわかれても、すぐに帰る気になれず、夜会の会場となった屋敷の庭を歩きまわった。建物から近い場所は、ダンスホールから抜け出してきた男女が点々と立っているから、エルネストはどんどん庭園の奥へと入っていく。
ひとりになりたい気分だった。
花のアーチをくぐり抜けて、だれもいない小さな広場までやってきた。庭園のほかの場所とちがい、花も咲かないさみしい広場だった。そのせいか、だれもいない。ひとりで考えごとをするには、ちょうどいい。
「エルネストさま」
「わっ」
暗がりから急に呼びかけられて、エルネストは派手に肩をはねさせる。
「ま、マグダレナ! さま! い、いつも急にあらわれますね」
そうでしょうか? とほほ笑みながら、マグダレナはふたりが立つ庭を手で示す。
「この庭、いま育苗中で、人にお見せする状態ではないようですが、そのぶんとても静かです」
それでここにはだれもいないのか。エルネストはひとり納得して、それからマグダレナを見やった。
「マグダレナさま、どうしてこんなところに? きょうの会は王子も来ているから、王子と踊られたらどうですか?」
「アレハンドラ王子は、わたしと踊ったりはなさいませんわ」
「ぼくが行って、踊れるようになんとかするよ」
「いいんです、ほんとうに。もともと、正当に決められた結婚ではなかったのです」
そもそも正当に決められた結婚とはなんだろう。アレハンドラ王子とマグダレナの結婚は、ふたりが幼いころに決まったものだ。すくなくとも、マグダレナがそこに介入する余地はなかった。
「わたしが悪いのです。幼いわたしが、アレハンドラ王子のお嫁さんになりたいなんて言ったから、父は娘の願いをかなえようと奔走して、それが実現するとなったら、目の前にある権力に手を伸ばさずにはいられなくて、野心を持ちました」
ぜんぶ、わたしのせいなの。
それは違う。
パラシオス公爵家は、三代前の王弟が興した家だ。もともと王家の血が入っていた。家を興した本人は、兄である王をよく支え、なにも問題がなかった。だが代を重ねれば、なにかのきっかけで自分が王である未来もありえたと考える輩が排出されてもおかしくはない。
それがたまたまマグダレナの父だっただけだ。マグダレナがいなくても、いつかは同じようなことが起きていた。
「……マグダレナさまは、もう王子のことが好きでないの?」
「大切な友人あり、尊敬するお方ではあります。でもわたしも王子も、お互いを生涯苦難をともにする伴侶と思うことはできないでしょう。このさき、ずっと」
さみしい覚悟だった。その毅然としたものいいに、もっと同情してもよさそうなものだが、エルネストはなぜだかほっとしていた。
「わたしが先日さしあげた情報は、お役に立ちましたか?」
「え、ええ。それは……もちろん」
不意にたずねられて、エルネストはあわてて返事をする。あの情報が役に立ったということは、公爵家の没落が近づいてきているわけだが、マグダレナ自身はそれでいいのだろうか。
「そうですか。それは、よかったです。それなら、あの……エルネストさま。見返りを求めるなど浅ましいとわかっております。けど……」
ああやはり、マグダレナもエルネストに代価を求めるのだな。エルネストは萎えた気分で両手を広げる。
「マグダレナさまの望むことなら、なんでもいたしますよ」
最初、彼女の印象が周囲のウワサと違ってずいぶん驚いたが、所詮はマグダレナも評判通りの女だったに違いない。どんな浅ましい望みを求めてくるのだろうと、内心エルネストは嘲笑した。
「……それでは、はじめてわたしに会った日にかけていただいた言葉を、もう一度ちょうだいできますか?」
言葉? エルネストは予想外の言葉に目をしばたたかせる。
「もしかして、あなたのことが"好き"だと言った、あの……」
「は、はい! でも、今おっしゃっていただいたので、もういいです。大丈夫です」
「そんな……こんな言葉でいいのなら、いくらでもささやいて差し上げますよ」
「でも、今おっしゃっていただいたので、もういいです。大丈夫」
「そんな……こんな言葉でいいのなら、いくらでもささやいて差し上げますよ」
エルネストは磨き上げたやわらかい笑顔で言う。覚え込まされた定型文が役に立ちそうな場面だと思った。どうせそこに気持ちなどないのだから、エルネストにとってはただの文字である。
「こんなささいなものが見返りで、よろしいのですか」
「ええ……だれかに"好き"と言葉をいただくのが、初めてだったので」
マグダレナは頬を染めて、目を伏せた。
「うれしかった」
エルネストの方が気恥ずかしくなるくらい、はにかんだ美しい笑顔で彼を見上げる。
「好きという言葉で、こんなに幸せな気持ちになれるのですね」
うれしい。とてもうれしいです。
でも、この言葉は嘘だ。エルネストには、マグダレナを想う気持ちなどかけらもない。マグダレナは、情報目当てに近づいてきたエルネストのなかに、一片でもそれがあると信じたのだろうか。
「エルネストさまはお口の形すらきれいなのね」
マグダレナはドレスの裾をはためかせて、ひとりで踊り始めている。
「その美しい口元をすりぬける言葉の、ぜんぶがうそであっても、もういいの」
エルネストは心臓がはねるほど緊張する。マグダレナはエルネストの嘘と真実を、どこまで許しているのか。
「わたしのことが好きだと言ってくれる方がいるなんて、奇跡のようです」
うれしい、うれしいと言って、マグダレナは花の咲く噴水を背にして、歌うように舞っていた。