三
パレシオス公爵家令嬢のマグダレナは、アレハンドラ王子が愛していた平民の娘を追放し、その真実の愛を引き裂いた。
これが、貴族子弟の通う学園で広まっているうわさだ。
うわさは、すべてが嘘とは限らない。人の口にのぼるということは、そこには一部本当のことが含まれている。
王子は、ここ最近街中で姿を目撃されたことはない。お忍びとしても、護衛を付けずに城の外に向かうことは考えられない。そうした動きがあれば、エルネストの兄が把握している。
密会の動きがないということは、その女性はもう王都周辺にはいないのでは?
エルネストは考える。うわさのうち、追放されたという部分が真実だとすれば、ここ数カ月で、とつぜん王都で姿を消した若い娘を探すべきだ。身辺を整える余裕はなかったはずだ。急に消えていればいるほど、条件にあてはまる。
若者は流動が激しく、人物の特定には時間がかかったが、丹念に調べれば大体の人間の行き先がわかった。
実際にこうして突然姿を消した女性があらわれたとなると、「うわさ」の中身も気になってくる。
マグダレナが、王子の想い人を追放したといううわさも、本当なら——
「テレサ・バルガス」
王都から遠く離れたある郊外の街で、エルネストはその女とパブのテラス席で向かい合っていた。
エルネストに名を呼ばれても、彼女の反応は薄い。
「まあテレサも、偽名かもしれないが」
女はこの郊外の街の裕福な商家で、家庭教師をしている。王都から足取りをたどって、公爵家とゆかりのある街を中心にさがし、見つけだした。マグダレナがテレサを逃がしたと考えると、その逃走先も、公爵家と関りがあると考えたが、その読みは当たっていた。
「きみはもともと、パレシオス公爵家が買い上げた宝飾店の従業員として働いていた。働き始めたのと、公爵から密命を受けたの、どちらが先かわからないが」
テレサは状況に観念したのか、それ以上は聞かれずとも白状した。
「……公爵家の人間に、わりのいい仕事があるからやらないかと言われて」
「なにを頼まれたかある程度予想はできている。公爵はきみに……」
「王子を一時の火遊びに誘えと言われたわ」
「へ?」
エルネストは間抜けな声を出した。彼女の命じられていたことは、思っていたことと違った。
エルネストは、彼女は王子と親しくなり、その周辺を探るように公爵家から命じられていると考えていた。
貴族の令嬢相手ならば警戒して言わないことも、平民のテレサになら話すかもしれない。その結果、たまたま恋に落ちてしまったのだと予想していた。まさか、王子に恋をさせることそのものが目的だったとは。
「ひどいことを頼むよな。公爵も。娘が王子の婚約者だというのに。自分の娘がかわいくないのかね」
エルネストは動揺が顔に出ないよう、そう続ける。すると、テレサもたがが外れたのか、饒舌に話し出した。
「それが……ちがうのよ。公爵は娘が大事なばっかりに、わたしを雇った」
「どういうことだ?」
「公爵は、王子に浮気してほしかった。公爵令嬢という婚約者がありながら、平民の娘と恋におちる。その罪を王子に作って弱みを握れば、王子の側からは婚約を解消しにくくなる」
「なるほど」
「でもね、あの人だめなのよ」
あの人とは、まさか王子のことではあるまいな。エルネストはあまりの無礼にあきれたが、実際そのとおりだった。
「本当に慣れてなくて、あっと言う間にわたしに本気になって、婚約を解消して正式に結婚しようって言いだすんだから」
女にとって成り上がるチャンスとも言えたが、テレサは心底迷惑そうだった。
「だってわたしの立場を考えてよ。王子に本気になられたら困るんだから。案の定、公爵家の連中は……わたしを……」
「消そうとした?」
テレサは答えなかったが、おびえたようにあたりをうかがう、その目が語っている。
「きみは……どうして逃げられた?」
テレサはまだ何も言わない。エルネストは、待つ時間も惜しく核心に迫った。
「マグダレナだ」
テレサが目をしばたたかせて、顔をあげた。
「きみを逃がしたのは、マグダレナだな?」
テレサを使ったこの計画は、マグダレナには伏せられていた。しかしどこかで事情を知った彼女は、テレサを逃がすよう父親であるパレシオス公爵に懇願したのだという。
「いまからでも戻って、本当のことを言う気はないか?」
「はあ? 本当のことって?」
「マグダレナがしたことは、きみの追放ではなく、救出と逃亡の手助けだったと」
テレサが王都に戻って王子と再会すれば、マグダレナとの婚約解消が一歩すすむ。それは王子の望むことだ。
そして、マグダレナを悪女にしていたうわさも、ひとつ減る。
「そんなことして、わたしになんの得が?」
「また王子と会える」
「べつに、王子のことなんて好きじゃなかった。身分が高くてかっこいい人が、わたしのこと好きになって夢中になってるのを見ているのが楽しかっただけ。なんでもわたしを優先するし、すごく満たされた気分になるけど、それだけよ。結婚なんてする気はないし、ましてや未来の王妃なんて、まっぴら」
なんてあけすけな人なんだろう。いっそ清々しい。王子といるときは、いったいどれだけのものを隠していたのだ。
エルネストの絶句をどう受け取ったのか、テレサはバツの悪そうな顔をして続ける。
「あの人もそうなのよ。あの、マグダレナとかいう人。別れ際に、わたしの手を握って言うの。いつか王都が落ち着いたら、また戻ってきて、アレハンドラ王子をしあわせにしてあげてって……彼女、王子の婚約者なんでしょう?」
なんで、なんであんなこと言うのよ。意味が分からない。
意味がわからないと言いながら、テレサの顔には、命を助けてくれた女への罪悪感と困惑があった。
王都に戻ってきたエルネストは、抜け殻のようになにもする気が起きなくて、学園のなかの噴水の淵にすわっていた。
みんながマグダレナを悪女という。マグダレナは、たしかに平民のテレサと王子の仲をさき、テレサを王都から遠ざけた。うわさはなにも間違っていない。その裏に隠された、マグダレナの王子への愛と優しさを、誰も知らない。エルネスト以外、誰も知らない。
「エルネストさま」
気づくと、マグダレナが立っていた。
「……マグダレナ……さま」
きみのしたことを知っているなんて言ったら、驚くだろうか。
「エルネストさまを、お探ししていたのです」
「ぼくを?」
「ええ、先日お助けいただいたこと、もういちどきちんとお礼をしたくて」
「ああ……」
あんなこと、礼を言われるようなことじゃない。
父親の悪事の結果を引きうけて、王子から不興を買うとわかっていても、マグダレナはテレサを逃がし、未来に王子のしあわせを祈っていた。それにくらべれば、エルネストがしたことなど、なにになるだろう。
「ほんとうにありがとうございました。エルネストさま」
——マグダレナ、きみはきれいな顔で笑うんだね。このことを王子は知っているのかな。
悪女の評判をたてられて、きみが助けた人はきみを救わない。ぼくだって、真実を公表できる立場にない。テレサが王都に戻らないなら、公表は王子のためにもならない。
だれもきみを、助けられない。
それでも、それでもきみは。ぼくのような男に、ありがとうと言ってくれるのだな——