二
エルネストには、兄から押し付けれた「マグダレナと懇意になる」という役目以外にも、進めなければいけない仕事がある。パラシオス公爵が公開市場委員会の情報を、いったい国外の誰に漏らしていたか突き止めることだ。
公開市場委員会とは国の主な金融政策を話し合う場であり、外国からの輸入品にかける関税や、金利政策について、数カ月先の展望が決まる。
この情報を、正式に発表される前に国外の富裕商人や国政に関わるものに漏らせば、先物取引や証券の売買において、莫大な利益を得ることも可能になる。それを国の中枢に近い公爵家の人間が漏洩させているなど、許されない。
その情報をマグダレナから得なければいけなかったのだが、エルネストはもっと卑近な問題に苦しめられている。
「ううぅ……悪女などとうわさをされているマグダレナ嬢に、とんでもない弱みを握られてしまった」
泣き顔を見られたうえ、そんな弱みを握られた女と、このさき仲良くならなければいけない。
「とんだ災難だったとは思うが、ならどうしていつもみたいに定型文でしゃべらなかったんだ? それがいちばん安全だったろ」
学園の教室で頭を抱えるエルネストのそばに座るのは、イヴァン・グリハルバ。エルネストの数少ない友人だった。
エルヴァニアでは、貴族は国王から領地を与えられ、その支配権を認められていたが、各貴族はみずからの領地に独自の支配機構を築き、その治め方は小さな王と言ってもいい。
エルネストの生家であるフローレス侯爵家は、独自性を強める貴族たちのなかでも、古くから明確に王家の盾であると宣言し、深い忠誠を誓ってきた一族である。
エルネストが、それぞれの貴族の国ともいえる領地内の情報も集めていることを、貴族たちも知っている。女を使って姑息な手段で間諜のようなまねごとをする男だと思われている。
イヴァンはそのエルネストと、しがらみも打算もなく付き合ってくれる奇特な友人だった。その彼が、上からつついてくる。
「なんのために定型文五百も覚えたんだよー」
そう、兄から貴族の令嬢とご婦人たちから情報を得るために覚え込まされたセリフは数百をこえる。いつもそれを機械的にくりだして話していただけなのだ。
「なぜか、マグダレナのまえでは何もうまくいかなかった」
だいたい、定型文には定型文が返ってくると思うじゃないか? ぜんぜん、それっぽいこたえが彼女からは返ってこないんだが? ダンスに誘ったのに、瞬殺で断られたんだが?
「そのうえ、ぼくがヨワヨワのヘナヘナな男であることもバレたんだ!」
もう終わりだ!
「でも、べつに今のところ、そういううわさは出てないみたいだけど」
イヴァンの声に、頭を抱えた腕のすき間からエルネストの目がのぞく。
「マグダレナ嬢は、ほんとうにエルネストとの約束を守ってくれているんじゃないのか?」
「彼女には、そんな約束を守る義理もないんだぞ」
むしろ、一部では嫌われものであるエルネストのおもしろい話を持ってご令嬢たちのなかに入っていけば、ひとりくらい友人ができるかもしれないじゃないか。なぜそうしない?
「……イヴァン。きみはマグダレナ嬢のこと、どう思う?」
「どうって?」
「彼女は、とんでもなく悪いやつだという話だったじゃないか」
「さあ。おれは、彼女と話したことがないからわからないね」
正直な感想だと思った。うわさを流している連中のなかにも、マグダレナと一度も話したことのないやつがいるんじゃないのか。
その日の夜、エルネストは、あるご夫人の主催するサロンに出入りするため、夜会に出てもおかしくない正装で街に繰り出した。
サロンとは、貴族の邸宅で主人を中心に、文化人や知識人が集まり、知的造作を深める活動の場である。
しかしエルネストがこれから訪ねるご夫人のサロンは夜に開かれる。それは立場や家柄で縛られ、自由の利かなくなった貴族たちの悩みを解決する、駆け込み寺のような場所だった。
貴族の抱える悩みとは、すなわち秘密であり、それはときに国を揺るがす危機の萌芽をはらんでいる。エルネストはそれを求めて、このカスティーリョ夫人の主催するサロンへ参加するのだ。
カスティーリョ夫人は、遠く南方の国からエルヴァニアに嫁いだが、結婚して数年で夫に先立たれている。
その後は婚家の資産を運用しながら、この秘密のサロンを主催し、家格に関係なく国で存在感を強くしている異彩の人だ。
「パレシオス公爵の目的は、なんだと思いますか。エルネストさま」
サロンと言いながら、夫人は自分を訪ねて来た人物と、一対一で相対する。長椅子に緩やかに身をあずけた夫人は、とうに花の咲き誇る時期を過ぎたが、たおやかに美しい。
エルネストは夫人の問いに、この国の貴族であればだれでも知っている事実を述べる。
「それは……娘のマグダレナ嬢を王子と結婚させ、この国の中枢に食い込むこと……」
夫人は笑顔を崩さない。しかし会心の笑みではないところを見ると、その答えでは不十分なのだ。夫人は、特に他の貴族に関する話題をたずねたとき、愚かな者にはなんの答えも授けてくれない。
「エルヴァニアには現在外交上の課題として国境問題があります。ご存じね? エルネストさま」
「ええ……マデンテリア自治州問題です」
「その件について、わが国と相反する利益を持つ国がありますね?」
「ヴェルサール帝国……」
マデンテリア自治州は、国内の南方に位置する自治区だが、エルヴァニアはその独立を認めていない。マデンテリアが大陸最大国家のヴェルサール帝国と隣り合っているためだ。
自治州政府は、独立のためにヴェルサール帝国に近づきすぎた。
マデンテリアは独立後、実質帝国の属国となるだろう。そうなれば、エルヴァニアは帝国とじかに国境を接することになる。属国の保護を理由に、わが国に武力介入してくる恐れもある。マデンテリアだけは、なんとしても自国の領土にとどめておかなければならない。
「まさか……公爵はその自治州に、国家機密を流出させているというのですか」
わが国にとって、利害が対立している国に近づこうとしているのか。そして近づいて、いったいどうしようというのか。
「王にはなれなかった男は、王よりも大きな存在になりたがっている」
ラフィーネ夫人は、無情にもそう断言する。たしかにパレシオス公爵家は王家の血を引いているが、王位簒奪以上のものを狙うとは、不遜にもほどがある。
「帝国に通じ、国内で王権を骨抜きにしたうえで、国家の実権を手にするつもりなのですか」
帝国の後ろ盾があれば、この国で公爵に逆らえるものはいなくなる。
エルネストはやるべきことが決まったので、礼を言い、すぐにその場を辞するつもりでいたが夫人に呼び止められる。
「これ以上の情報を得られるあてが、あるのかしら?」
「ええ、あります」
エルネストは迷いなく答える。
「それは、マグダレナ?」
夫人は公爵令嬢を呼び捨てにした。そしてエルネストに重ねてたずねる。
「彼女とは、どういう関係なの?」
「ただの、仕事上の関係です」
「そうでしょうね」
マグダレナから情報を得ることに、なにか問題があるのだろうか。エルネストは夫人の考えを読みかねている。
「マグダレナはほんとうに王子のことが好きなようだけど、叶わない恋は女にとって時間の無駄。追われるうちが花なのに」
夫人はため息をついている。マグダレナの未来を案じているのか、あざけっているのか、わからない。
「王子にはね、真実愛する方がいたのよ」
「それは、学園でうわさになっているマグダレナが仲を引き裂いたとされる平民の女性の事ですか?」
今度はエルネストが食いついた。しかしエルネストが興味を持ったと見たとたん、夫人は黙ってしまう。ただほほえむだけの夫人は、こうなってしまっては、もう何も話してくれない。
エルネストは、これからやるべきことについて考えていた。公爵家が、どの国の関係者と接触していたか。それは重要な調査事項だ。しかし。
——まずはマグダレナのうわさの真相について、確かめるべきじゃないのか?
うわさに聞く悪女のマグダレナと、実際に自分が見たマグダレナ。その間にある違和感の正体を、エルネストはどうしても確かめたかった。