エピローグ
まだ夜も明けないうちから、マグダレナは店の階段を下りていく。
育った国を離れて、遠く祖国の地に来てから、数カ月たった。小さなパン屋の二階に下宿をして、そのうち店も手伝わせてもらえるようになった。
この国にマグダレナを知る者はいない。生まれ変わるような気持ちでやり直すなら、うってつけの環境だった。
パン屋の朝は早い。作業場の東向きの窓から朝日が見える。それがときどき、夕日の赤に見えるのが、マグダレナには悲しい。
国境を超えることに困難がないというだけで、ほとんどが徒歩のその道程は、長く険しかった。たどり着いた南方の国の街角で、エルネストは、やっと探していた人に巡り合った。
「エルネストさま」
彼女のびっくりした赤茶のひとみが、夕日に似ている。
「マグダレナ」
エルネストはすぐにマグダレナに近づいた。
「どうしてここに」
「きみに会いたくて」
「わたしは国を追われた身です」
彼女は顔を逸らし、身を引こうとする。エルネストは、自分に対してそんなことをする必要はないのだと、マグダレナに伝えてやらなければならない。
「ぼくもきみと似たようなものだ。侯爵家は勘当だ」
「どうして」
「王子を殴った」
「アレハンドラさまを!? なぜ!」
「だってマグダレナを馬鹿にした。きみと一緒に夕日を見たこともないくせに」
エルネストはそこでさらに、にやりと笑った。
「ついでに兄もボコボコにしてしまった。でもどうやら、その兄上のはからいで、ぼくはかろうじて死刑を免れたようなんだけど」
「死刑なんて、ほんとうに。なんて無茶を」
マグダレナは、それ以上ことばが見つからなかったのか、だまってしまう。エルネストはマグダレナを連れて、近くの石垣に腰かけた。
「後悔はしていない。でも中途半端だったなとは思っている。きみの復讐はできていない」
「そんなものいいですよ」
「お母さまの生家に帰らなかったのは、どうして」
マグダレナはくちびるを一文字に引き結んだ。
「カスティーリョ夫人からすべて聞いた。ぼくがこの国に来られるよう計らってくれたのも、夫人だよ。きみはこの国では貴族ではなく、ただのひとりの住民として生きたいと望んだと聞かされた」
「もう、貴族はこりごりだったんです。それに……もしも、エルネストさまがわたしのところに来てくれたとき、わたしが貴族では、一緒にいられないかもしれない」
エルネストを待っていてくれた。なにを言えばいい? こういうときどう言うべきか、兄に覚え込まされた問答のなかに、その答えはなかった。
「きみのいいところ、ぼくはたくさん知っている」
エルネストは、まだちゃんとマグダレナの目を見ては、彼女のいいところ、つまり自分の好きなところをまっすぐには言えない。
「他人の幸せのなかに、自分の幸せを見つけられるところ。きれいな景色を綺麗だと言える心をもっているところ。それから」
それから、と言ってエルネストはマグダレナの手を強く握った。
「ぼくが好きだと言ったら、喜んでくれるところ」
夕日はマグダレナの頬を紅く染めている。 あの丘のうえではなくても、世界中どこでも、夕日は美しい。きみと一緒なら。
「ぼくのこと、許してくれる? 勝手にきみをこの国に送る手はずを整えてしまった」
「最初から、怒ってなどおりませんわ。エルネストさまは、わたしを助けてくださったのですから」
「ぼくはもう貴族でもないし、きみをしあわせにできないかも」
エルネストはかぶっているフードを少し引っ張って、恥ずかしそうに顔を隠す。
「わたし、働いているから大丈夫です」
「ぼくも働く。なにができるかわからないけど」
「なんでもできます。この場所では」
「そうだね」
ぼくはぜんぜん、きみの運命の人ではないかもしれないけど、きみのいいところたくさん知っているから、今はこの手を握るよ。
「きみにもらった鉢植えの……花は咲いた?」
「ええ、咲きました! わたしの部屋にありますから、見にいらしてください!」
「そうか……よかった。何色の花かな。確かめないと」
それからエルネストはフードを取ると、貴族だったころより大雑把な動きで、マグダレナを誘った。
「とりあえず、踊らない?」
きみはとてもいい子だから、きみのこと幸せにできる男は他にもたくさんいるかもね。でも、だれもきみの魅力に気付かないなら、今夜はぼくと踊りませんか。
夜が駆けていって朝がきて、空が白んで明るくなるまで、月の明かりの下で、今夜はぼくと踊ろう。
復讐も、ふたりが貴族だったことも、きみが王妃になりかけたことも全部忘れて、それでふたりでしあわせになろう。
世界でいちばん、しあわせになろう。
ありがとうございました。
まはなにか書くと思いますので、よろしくお願いします。