十一
マグダレナは母の顔を知らないが、それはさほど問題ではない。知りたいと、自分から望んだこともなかった。
ただ南方の国に多い、自分のこの、赤茶けたひとみが、父であるパレシオス公爵の野望を燃えたぎらせることだけが、彼女の心を苦しめる。
南方の国へ遊学中に、現地の女をたぶらかし子どもを産ませて逃げ帰ってきた男。それが、当時のパレシオス公爵の評判だった。
「その話はまちがいだらけ。お父さまは、お母さまのことを心から愛していた」
鋼鉄の武器を背後に、武器庫の前で、マグダレナは自分がエルネストを騙した理由を語っている。なぜ語るのか。自分でもわからない。このまま真の悪女として、彼の前から消えてしまえばいいのに。
お母さまは南方の国の王族の傍系だった。お父さまはお母さまと結婚するつもりで正式な手続きに臨んだけど、許されなかった。当時親密な国交がなかったこの国に、傍系とはいえ王族を嫁がせることに対し、お母さまの祖国が折れなかった。
そのうちに、わたしが生まれてしまった。
お父さまはわたしを連れて、一度自分の祖国へ帰ることを決意した。国に帰り、公爵の立場を活かして、正式に南方の国と関係を結び、大手をふって母をむかえに来るつもりで出発した。母にもそう伝え、その言葉に、実際うそはなかったと思う。
でも、父が国に帰りつくころ、この国と南方の国のあいだにひろがる帝国との関係は悪化していた。マデンデリア自治州をめぐって。
また南方の国は帝国とも関係が深いから、父は、ついに母のもとに帰る手段も失った。この国では、貴族に対し帝国や南方の国に出国する許可が、もう下りなかった。無理やり出国すれば、公爵位をはく奪されるかもしれない。公爵位がなければ、他国の王族である母を妻に迎えることはできない。
八方ふさがりになった父は、とんでもないことを考えた。この国の王権を乗っ取り、帝国と帝国領のあいだに国交を開き、南方の国までの道をきずく。たとえそれが、国益を損なうことになってもやりとげるつもりだった。
すべては、愛する母を迎えに行くために。
「家族で一緒に暮らすために、がんばろう」
お父さまにそう言われて、断れると思う? ねえ、エルネストさま。
もうお父さまには、それしか生きる動機がなかったの。娘のわたしでは、彼の生きる理由になれなかった。
地下の武器倉庫の暗がりで、エルネストの姿は良く見えない。でも、そのひそめるような息遣いから、彼が自分の話を聞いてくれているのがわかった。
マグダレナとエルネストは、公爵領に来るために乗ってきた馬車に、ふたりで乗り込んだ。彼はなにも言わず、ただ自分のひざを見ている。あまりにも動揺して、茫然としている。そう見える。
「マグダレナ」と、ひざを見つめたままのエルネストに呼ばれた。
「ぼくが、公爵家の悪事をあばくように誘導したのはどうして?」
マグダレナに騙されていたことを受け入れたのだろうか。エルネストの声に、動揺は混じっていなかった。
いまから自分が話すことも、けっして言う必要のあることではない。でもエルネストは、マグダレナの行いで傷ついた唯一の人であるから、知る権利がある。
「わたし、くやしかったの」
マグダレナは、馬車の車窓から見える景色から視線をはずさない。
「南方の国のどこのだれともわからない女に産ませた子というのが、わたしの評判です」
母の素性は、だれにも明かすことができなかった。うわさが立つのは仕方のないことだった。
「そのうえパレシオス公爵家は、どうみても国益になることをしていない。きっとみんな、お父さまと同じように、わたしもこの国をおとしいれる悪女だと思っている。でもわたしは、国を破滅に導いてまでお母さまに会いたいわけではなかった。この国のことも……きらいじゃないの」
いい思い出が、ひとつもないわけではないから。やさしい人もたしかにいた。たとえば、フローレス侯爵家次男エルネスト。
「お父さまの計画がうまくいったとしても、簒奪者の娘なんて、どうせろくな死に方はしないでしょう。この国を陥れる元凶のパレシオス公爵家の人間として死ぬなら、せめて最後の花火で、自分の家門を派手に散らせてからにしようと思った」
人生の最後に打ち上げる、特大の花火で国を救うの。
「だれにも知られなくていい。この祖国を人知れず守った勇士として、最後は弾頭台に立ってみせる。同じパレシオス公爵家の人間として死ぬのでも、わたしにとっては、このふたつはまったく違うものなの」
マグダレナは、馬車を王宮の裏手の丘に向かわせる。馬車をおり歩き出すと、エルネストはなにも言わずについてきてくれた。通うものもあまりいない。人とすれ違うほどの幅もない、斜面に作られたせまい階段を上っていく。
登りきった先のひらけた広場に、ふたりは立った。
「エルネストさま。一緒に来てくださって、ありがとうございます。もうわたしには、あなたに渡せるものがなにもないのに」
「マグダレナ。あなたから得られるものが何もなくても、わたしにはここに来ることを選ぶ自由があります」
マグダレナは前だけ見て、こたえなかった。
あなたのそのことばは、定型文なの? それともあなた自身のことばなの? エルネスト。そんなことを聞いたら、あなたはまた泣いてしまう?
夕日がその傾きを大きくしている。
「きょうはどうしてこのようなところへ?」
「……夕日を、一緒に見たかったのです」
王都の外の森のかなたに、海が見えている。夕日を映して光り輝く海と、まさに沈もうとする太陽で、世界はこのうえもなく明るかった。
「ここから見る夕日が格別なので、だれかと分かち合いたくて。アレハンドラ王子を一度おさそいしたこともありますが、いらっしゃらなかった」
これでも、王子と婚約者として関係を築いていけないか、努力したこともあった。そうすればエルネストを利用する必要もなく、王子に直接すべてを伝えればいい。いまのマグダレナの言うことを、王子は聞いてくれないだろう。訴えても、騙そうとしていると疑われるだけだ。
「すばらしい景色ですよ」
エルネストは、夕日を見てそう言ってくれた。
「そうでしょう? この丘、実は公爵家の持ち物なのです。父が……公爵閣下が亡くなれば、この丘だけはわたしが継ぐことを約束しています。だから今のうちから遺言を書いておきますわ。マグダレナが死んだら、この丘はエルネストさまに差し上げますって」
あとは死ぬのが自分の役目だ。残したいものは、ここから見える夕日以外ない。
「そんなの、いりませんよ」
「そうおっしゃらずに! ぜひ!」
「いりません、ほんとうに」
いらないんだといいながら、エルネストはマグダレナの肩をつかんだ。
「マグダレナ。どうかそんな悲しいことを言わないで。きみは自分で、しあわせになろうとは思わないの?」
エルネストの手にこもる力の強さに、マグダレナはくちびるを静かにかんで、じっとした。
「幸せそうな人を見ることがわたしの幸せですわ。王子がわたしがいなくなったあと、ほんとうに好きな方と結婚すると考えることも、エルネストさまがわたしがいなくなったあと、ここからの夕日を眺めてくれると想像することも、わたしにとっては幸せです」
「ちがう。きみは自分が救われる形で自分自身の幸福が実現しないことをよくわかっている。だからぜんぜんべつのものに、幸せを託そうとしているだけだ。もっとちゃんと、自分の幸福について真剣に考えるべきですよ」
どうしてあなたは、そんな真摯な目で、わたしにしあわせを説くの。エルネスト。
「きみが好きだよ。今度はほんとうだ。きみの言う通り、この口から出るのはでまかせばかりで、どれが真実なのか、もう自分でもわからない。でも、きみが好きなのはほんとうだ」
好きだよ、マグダレナ。
「……どうして」
マグダレナの口をついてでたのは、疑問だった。
「きみのこと、ちゃんと知っているよ。無闇に殺されそうになっていた平民の女性をこっそり逃がしたことも、王子のために毒の入ったお茶を飲んだことも。きっと、こわかったでしょう?」
どうして知っているの。だれにも知らせずに、わたしがしてきたことを。
あなたは、公爵家が国を裏切るためにしていた悪事だけを、調べていたのではないの。
エルネストさま、あなただって、わたしのことを簡単に大切な情報を垂れ流す、ばかな女だと思っていたのでしょう。じっさいその通りに振るまいました。
でもあなた、最初からおかしかった。
わたしがなにかするたびにびっくりしたり、あわてたり、かわいかった。
わたしがどこにいて、なにをしているか。どんなものが好きなのか。そんなことを気にする人は、これまでいなかった。お父さまでさえ、興味がなかった。
あなたは、ダンスホールでひとりになったわたしを見捨てなかった。植物園までわたしを探しに来てくれて、わたしが贈った鉢植えを大切に育ててくれて……わたしの好きなものなら、いつかは自分も好きになれると言ってくれた。
わたしが隠していたことをぜんぶ知っていて、わたしのこと、好きだと言ってくれた。
うれしかった。ほんとうに、心から。
あなたといっしょに生きられたら、どんなにしあわせでしょう。
でもそれはできないのです。どうしても、できない。
マグダレナはおびえたようにエルネストの手をふり払うと、せまい階段をかけおりて行ってしまった。