プロローグ
冬のスラム街。
アーケード通りである。
通りにはあちこちにダンボールが敷いてあり、その上に布団が。誰かがそこで寝泊まりしているのだろうか、ポットとガスコンロ、折り畳みのテーブル、スポーツバックが置いて有る。近くには折りたたみ椅子、ポリバケツ、空の一斗缶、台車、自転車等が置いてある。
笑い声と空き缶の投げる音がした。
自転車に乗った巡査長が道路の両サイドを確認(睨む)しながらゆっくり走って行く。
昼間から仕事にあぶれた労務者達がたむろして酒盛りをして居る。
酔った男が巡査長に声を掛ける。
「ご苦労さん。大変だねー、お巡りさんも。ちょっとアッタマって行かねーか」
巡査長は一言、
「火の元を確認しなさいよ。皆んなの街だからね」
「分かってるよー」
巡査長はたむろする労務者達(プー太郎)にキツイ視線を送って走り去る。
そんな通りに一軒の「入り安いコンビニ」が在る。
そこが今回の百地教授の実践的社会学(人間観察)の研究の場である。
店の外のダストボックスの上に、一匹の『雉トラ(招き猫)』が膨らんで座っていた。
店内のブックコーナーでは、作業用ジャンパーを着て首にタオルを巻いた男が立ち読みしている。
入店音が店に響く。
「ピンポ~ン・・・」
元気良く「店」に入って行く中年の女性。
女性の名前は『百地静子』。
百地教授の気の強く、力強い妻である。
「おはよう御座いま~す」
レジカウンターには茶髪にピアスの青年が、ポケットに手をいれて風に揺られる様にして立って居る。
青年は居眠り(立ち寝)をしている。
チャイムの音に反応して無気力に、
「セ~(いらっしゃいませ)」
百地教授は店の外で割れたサインボート(店看板)を見上げて、佇んで居る。
「・・・割れてるなあ・・・」
すると、たむろする酔っ払いが教授を見て、
「おい、あったまって行かねーか?」
教授が、
「いや、遠慮します」
すると店内から静子の声が、
「アンタ! 何してるの」
教授は溜め息まじりに店に入って行く。
店内を見回している静子に、
「おい、あのサインボード(店看板)割れてるぞ」
静子は無関心に、
「そう」
すると突然、バックルームのドアーが開き、ダンボール箱を抱えた無精髭の青年が売り場に出て来る。
青年は売り場を見回している静子を見て、
「あ! 新しいオーナーさんですか?」
「え? あ、私は店長です。オーナーはあちらの・・・」
「あッ、失礼しました」
青年は急いで百地教授の傍まで来ると、元気良く挨拶をする。
「オーナー、はじめまして。佐藤です」
教授は『オーナー』と謂う言葉に一瞬戸惑う。
「オーナー? あ、僕はオーナーか。初めまして、百地です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
佐藤くんは汚いスニーカーを履いた、どことなくアカ抜けない青年である。
百地教授は、売り場の奥で気になる商品を整えている静子を指して、
「あそこに居るのが僕の妻、シズコです」
「え? 奥様ですか」
佐藤くんは静子の前に駆け寄ると、
「先程は失礼しました。ボク、佐藤です。宜しくお願いします」
静子は振り向き、
「あら、アナタが佐藤君? 大石さんから聞いているわよ。この店のリーダーでしょう。頼りになりそう」
教授はズボンの腰からシャツの出た、佐藤君のだらし無い後ろ姿を見て、
「そりゃあ、ベテランだもん。なあ、佐藤君」
「いや~あ、ただ長く居るだけですよ」
百地教授は頼りになりそうな? 佐藤くんを見て、
「そ~だ。初めてだから面接でもしようか」
「はい。じゃ、この荷物を片付けてから」
一見、仕事熱心な青年である。
百地教授はレジカウンター内で無気力に立つ青年を見て、
「あッ、それからあのカウンターの・・・」
「林ですか?」
「あ~あ、彼が林君か・・・。わるいけど林君にも伝えといてくれる」
「はい」
良い返事である。
百地教授と静子は奥の事務所に入って行く。
すると通路の端を大きなネズミが一匹走って行く。
静子は驚いて、
「キャ~、ネズミ!」
「ネズミ? おお、ネズミだ。懐かしいねえ。古い店だし、それに隣が米屋さんだ。ドヤ街の店にピッタリじゃないか」
静子は言葉を荒げて、
「何言ってんの。ネズミなんかと一緒にお店なんかやれないわよ」
教授は開き直って、
「キミだって鼠年じゃないか。ネズミは縁起が良いんだぞ」
何となく通路に漂う『異様な臭い』に立ち止る百地教授。
「・・・おい、なんか臭くないか?」
静子はトイレの横の『廃棄物置き場』の生ごみを指差し、
「そこの廃棄の袋じゃない」
百地教授は変に納得して、
「あ~あ」
と言いながら、ふと天井を見る。
蛍光灯に数匹の黒い虫が停まっている。
「・・・あの蛍光灯に停まっているの、あれはハエじゃないの?」
静子は無関心に、
「そうね」
と一言。
納得が行かない百地教授。
「冬なのに、何であんなに居るんだろう」
「そんなのアタシに聞かれても分らないわよ。ハエに聞きなさいよ。後で、殺虫剤で皆殺しにしちゃうから」
百地教授と静子は事務所の中に入って行く。
そこは、うす暗く狭い事務所であった。
二人は事務所の中を見回した。
錆て破れたシートの折りたたみ椅子に落書きだらけテーブル。奥には傘の忘れ物がビニールの紐で縛り、三束立て掛けてある。
二人は折りたたみ椅子を広げて腰かけた。
静子は周りを見て、
「ここが事務所? ・・・こんな所で仕事するの?」
「慣れればなんて事ないさ」
教授の簡単な応え方に静子は、
「慣れれば?・・・」
静子は不安そうに百地教授を見る。
つづく