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今日、キスをする

作者: 秋山春



「痛かったね」


「カチンって」


 二人は照れくさそうに、クスクス笑った。

 何でもない事のように振る舞っているが、リョウの内心は穏やかではない。きっとスズもそのはずだ。


 高校に入学して最初の秋、リョウは友達の紹介でスズと出会った。


 デートを重ねて、付き合う事になり、それから半年が経っている。手は繋いだ。次はキスだと、あれこれ知略を巡らせてタイミングを測っていたところ……事故が起きた。


 ここはリョウの暮らす古いマンションで、誰も使う事のない非常階段の踊り場が、二人の密会場所になっていた。


 近くに学校の第二グラウンドがあり、野球部が大声を上げて練習に励んでいるのだが、何故か今日に限ってそのかけ声が面白く、二人でふざけて笑いあっていたところ、互いの口がぶつかってしまったのだ。

 

 こんなものが初めてだなんて、ありえない。

 本物のキスで上書きしてやろう、とリョウは腹を決めた。そして一時間が経った。


 夕焼けで空が赤い。

 きっかけを掴めないまま、ひたすらぎこちない会話を繰り返して、気が付けば帰る時間だ。


 リョウはとてつもない情けなさと虚しさを抱えながら、帰り支度を始めた。


「送っていくよ」ズボンで手汗を拭きながら言った。


「いいよ、一人で帰れる」


「最近物騒じゃんか。俺が守らないと」


「何それ、かっこいいじゃん。キスしたから?」


 スズがいたずらっぽく笑って、リョウの頬を突っついた。顔がカッと熱くなる。


「やめろって」


「照れるなよー」


 リョウは嫌そうな振りをして、スズの手を避ける。

 そして、しつこく何度も迫りくる小さな手を捕まえると、指を絡めて抑え込んだ。


 スズが小さく「あっ」と声を出した。

 

 それから、気まずい沈黙が続いた。

 沈黙に耐えかねたのか……それとも……繋いでいるスズの手が、一度ギュッと強く握られた。


 こっそり顔を動かして横目でスズを見ると、潤んだ瞳がしっかりとリョウを見据えていた。今にも爆発しそうな心臓を、バレないようにゆっくり深呼吸して落ち着かせる。


 今しかない。


「こっち、見て」


 リョウは空いている方の手でスズの頬に触れた。

 繊細なガラス細工を扱うようにふんわりと。スズの口端についた毛先をすくい取って、髪の束をそっと耳にかけた。


 小指が耳を掠めて、スズが小さく震えた。

 恥ずかしそうに俯いた顔を上に向かせると、スズは今にも泣き出しそうな顔で目を閉じた。


 固く結ばれた唇が、力みすぎてうっすら白くなっているし、緊張のせいで小刻みに震えている。顔が真っ赤に染まっているのは、きっと夕焼けのせいじゃない。


 リョウは息を止めて、顔を近づける。

 ギリギリまで愛しい彼女の様子を楽しんで、それから目を閉じた。




 いつの間にか赤かった空は暗いオレンジ色に変わって、第二グラウンドから聞こえる声が部活の終わりを告げている。


「そろそろ帰らないとな」


「そうだね」

 

 階段の踊り場で横並びに座っている二人は、互いにそっぽを向いたまま言った。

 

「送っていくよ」


「そうして」


「……したから?」


 スズが肘でリョウを小突いた。


 二人はまだ、帰らない。




練習を兼ねて短編を書いてみました。


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