幕間 1
幕間1
『地の極土』。
それは、犯罪アーベントである『札付き』を収監するための巨大な牢獄だ。
『地の極土』は北極の氷の大地の上に建設されており、ARSSのアーベントに捕えられた世界中の札付きがその牢獄に囚われている。
札付きの絶対数がそこまで多くないことと、現場でそのまま処刑されるケースも多々あることから、囚人の数は三桁程度で収まる。
だが、牢獄にしては収監人数が多くはないとはいえ、捕まっているのは凶悪な特殊能力者。
狂気能力で簡単に暴動を起こせる彼らは、人権が剥奪されていることもあり、『地の極土』に収監後は直ちに、能力が使えない、または使えにくくなるよう『特殊な加工』が施されている。
その上、刑務官もまた特別な人間――選りすぐりのARSSのアーベントが十人以上も派遣されている。
特に、その中でも監獄長を務める四十代の男――中級アーベントでもあるルーカス=ドリゲスは、強力な水操作能力の持ち主であり、監獄に務める前までは数多の強力な鵺と札付きを斃していた。
『ルーカスはいずれ、どこかのARSS本部長のポストに就くのではないか?』とまことしやかに囁かれており、上級へ昇格するのも秒読みと言われていた。
そんな、ARSSのアーベントの中にもトップクラスの実力誇るルーカス=ドリゲスは今。
とある白い男によって、血塗れにされ、床を引きづられていた。
その男は囚人ではない。
刑務官でもない。
外から来た、『侵入者』だった。
「……」
白い侵入者は監獄長ルーカスを引きずりながら、進路の先にある分厚い鋼鉄の壁をまるで障子紙かのように指先で軽く引き千切りながら、『目的地』に向かって突き進む。
ここは大監獄『地の極土』。
ならば、侵入者の目的もわかりきっていた。
「――」
白い侵入者は、一際分厚い鋼鉄の壁に直面する。
今までの壁とは違い、何倍もの厚さを誇り、明らかに異質な雰囲気を放っていた。
しかし、その壁も、その侵入者にとっては紙同然で。
その異質な壁――この大監獄において最も堅牢な壁に囲まれたその部屋にこそ用があった。
白い侵入者の男は、その壁を手を少し動かすだけでズタボロに引き裂く。
その先に居たのは、たった一人。
世界でも最も邪悪な監獄の中で、最も堅牢な壁に覆われたその部屋に居たのは、椅子に縛りつけられたたった一人の男だった。
「……お初にお目にかかる、と言えばいいのかな?」
広い部屋の中でポツンと、椅子に縛られ、拘束服で全身を覆われている男が、のんびりとした口調でそう嘯く。
まるで、白い侵入者の破壊行為と登場に全く驚いていないかのように。
「君の噂は知り合いからよく聞いていてね。もしかして、僕を殺しに来たのかい?」
「……」
白い侵入者は監獄長を拘束服の男の足元に投げ捨てる。
そして、
「……これは、どういうつもりだ?」
拘束服の男を縛っている数多のロープを、瞬く間に切り裂いた。
「見ての通りだ、お前を逃す」
「なぜ?僕と君は直接的には何も関わりはないはずだし、例え助けられようとも僕は君に従ったりしないけど?」
「共通の知り合い――私の部下がお前に迷惑かけた。『これ』は、その詫びだ」
「……」
拘束服の男は眉を顰める。
そんなの、理由になっていない。
白い侵入者もそのことに気付いたのか、付け足すように、
「……ここには私の元部下が収監されている。もう捕まってから一年近く経つが、口封じの必要が出てきた。お前への『詫び』はそのついでだ。ここに攻め込むのは多少の労力を払うが、一旦攻めてしまってはお前を逃すことは大した手間でもない」
「……『私に従え』とかそんなことは言わないのかい?」
「服従であれ相互利用であれ、心から私と私の目的についてこようとするのであれば歓迎しよう。だが逆に言えば、お前をここで無理矢理従えさせたところで、お前の狂気が付いて来なければただの役立たずだ。そんなもの、私には要らない」
「……ふーん、なるほどね」
拘束服の男は納得したように笑みを浮かべながら頷く。
「『今は別に構わないけど、いつか自分に心からの協力してもらえることを期待して、逃してやる』っていうところかな」
「その理解で正しい」
「ふーん……」
拘束服の男は目を細める。
それは、まるで何かを値踏みしているようだった。
直後、表情を苦笑いに変えると、肩をすくめて、
「僕に大層な期待をしてくれてるとこ悪いけど、僕の能力の核はどっかの化け物に壊されていてね。それに、能力の起点だった両手も喪ってる」
拘束服の男は腕をパタパタと振る。
その腕の先には何もなく、拘束服がゆらゆらと揺らいでいた。
だが、
「その心配は要らない」
白い侵入者は、片手を振る。
それと同時に、拘束服の男の、手のあたりの拘束と服の端がポトリと落ちる。
その中には、
「もう、治した」
真っ黒ではあるものの、五本の指が揃ってる確かな手がそこにあった。
「……へぇ。噂以上のめちゃくちゃ具合だね、君」
拘束服の男は調子を確かめるかのように、手首をグルグルと回す。
「……問題は無いみたいだね。ま、能力の方は不調のままだけど」
「それは自分でなんとかしろ。私の知ったことではない」
「冷たいなぁ……」
拘束服の男はニヤニヤと笑う。
それとほぼ同時に、白い侵入者が壊した壁から、刀を持った暗い女が入ってきた。
彼女は、白い侵入者の方に視線を遣って、
「……ボス。『処理』は問題なく済ませた。もうあの女が騒ぐことはない」
「そうか。ご苦労」
白い侵入者は当然のことのように頷くと、視線を拘束服の男に向けて、
「さらばだ。いつか、私の『森』に加わることを期待してる」
そんなことをボソリと嘯くと、まるで幻かのようにその場から消え去った。
暗い女も一緒にその場から消えており、その場に残るのは拘束服の男一人となる。
……いや。
もう一人、居た。
床に転がされていた、この牢獄の監獄長が。
「狂気解放――『水流支配』!」
意識を取り戻していた監獄長ルーカスは、床に突っ伏しながらも固有能力を発動させ、監獄長権限で拘束服の男を処断しようとする。
高威力の『圧』を生み出すその能力は、二十万の能力者を誇るARSSの中でもトップクラスの威力を誇るもので、彼はこの能力を持ってさまざまな鵺と札付きを殺してきた。
そんな死の水流を向けられた拘束服の男は、
「ハッ」
冷たく嘲笑いながら、片手を振るだけだった。
それだけで死の水流は飛び散り、部屋の床が水浸しになる。
直後、拘束服の男は、まるで攻撃など受けなかったかのようにのんびりとした動きで、先程まで縛り付けられていた椅子から立ち上がる。
そして、
「身の程を知れ、クズ」
拘束服の男は右脚を持ち上げ、倒れている監獄長ルーカスの頭に目掛けて降ろした。
ルーカスは慌てて水の盾を自分の顔の前に作る。
しかし、そんなもの、拘束服の男が振るう暴力の前では何も意味は無く、拘束服の男の右脚が容赦なく水の盾ごとルーカスの頭を踏み砕いた。
『ズシャァァァァァ』と、凄まじい音を立てながら辺り一面に血と水が散らばる。
確実な絶命。
ARSSの中でも一握りの実力者である監獄長ルーカス=ドリゲスは、いとも簡単にその命を散らした。
それも、そのはず。
何故なら、ここにいる男はただの札付きではなく、百年近く続くARSSの歴史の中でも最低最凶と称される極悪人だったからだ。
「……チッ」
拘束服の男は舌打ちすると、靴の底にこびりついた監獄長の血と肉片を床に擦り付ける。
直後、気分転換でもするかのように大きく伸びをしながら一言、
「さて。これから、どうしようかな」
そんなことを嘯きながら。
その拘束服の男――元ARSSロシア本部長アーダルベルト=シュルツは、のんびりとした足取りで大監獄を後にした。
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アーダルベルト=シュルツ