第二章
第二章
1
ロシアのモスクワ某所にて。
「ハッ」
逆だったオレンジ髪の少年――ルアン=ラディーベは鼻で笑いながら、六本の腕を持つゴリラのような鵺と対峙していた。
そんな彼の手にあるのは、二本のナイフ。
『斬撃が任意の方向に二回追加する』という特殊能力が付与された『虹の武器』の一つだ。
「――死ねよ」
ルアンは一言そう呟くと、目にも止まらぬ速さでゴリラ型の鵺に背中に回る。
その直後、ゴリラ型の鵺の腕と腹は無数の切り傷に塗れ。
ゴリラ型の鵺の下腹部にあった法臓が、八つに切り裂かれた。
「……当たったみてぇだな」
鵺の弱点の法臓は肉体の中心またはランダムにあると言われており、ルアンのナイフが偶然法臓を切り裂いた形だ。
もっとも、ルアンはアーベントとしての共通能力………つまりはアーベントや鵺の元になっている『影胞子』の操作と察知能力に長けており、ある程度ヤマを張って攻撃をしていたのだが、そのヤマ勘は当たったようだった。
「……ふぁぁ」
ルアンは退屈そうにに欠伸する。
(……つまんねぇ)
……一応生きるために必要な仕事として、求められるまま鵺退治するものの、相手がここまで弱ければ気怠い徒労感に包まれてしまう。
「……」
ルアンは怠そうに視線を足元に向ける。
そこには、負傷した四人のアーベントが地面に転がっていた。
「ぐ……」
「はぁはぁ……」
四人はルアンが来た時にはもう地面に転がっていて、致命傷こそ負ってはいないものの、かなりの大怪我を負っており、四人とも身動きが取れず息を深く吐き続けていた。
明らかに応急処置か、救援連絡を行わなければいけない状態。
そんな彼らの様子を見たルアン=ラディーベは。
「……」
地面から視線を外すと、まるで何事もなかったかのようにその場から立ち去った。
2
「本部長代理、ちょっといいか」
金短髪の女下級アーベント、マルファ=イロフスカヤは本部長執務室に訪れるな否や、この部屋の主――アンナ=ヴェルデニコフに向かって不機嫌そうな顔でそう呼び掛けた。
「なに?」
「ルアン=ラディーベのことだ」
「……ルアン君がどうしたの?」
アンナは意外そうでもなく、いつも通りのクールな無表情でそう聞き返す。
それに対してマルファは不機嫌そうに、
「本部長代理はいつまでアイツをここに置いておくつもりだ?もう一ヶ月経ったが、アイツの行動には目が余る」
「……一ヶ月間、彼は問題なく鵺退治してくれたと思うけど」
「鵺退治、のみの話ならな」
マルファは溜め息混じりに、
「アイツは他のアーベントのことなんて全く気にかけてない。怪我で動けなくなった仲間を前にして応急処置するどころか、救援連絡しないでその場から立ち去る」
――ルアン=ラディーベは、強いアーベントであるのと同時に他本部から来た客将だ。
ゆえに彼に弱い鵺退治の任務が振られることはなく、下級アーベントチームでは対処できなかった鵺の退治、及び救援任務が振られるのだが、そこで彼は鵺を斃すだけで先行して怪我を負った下級のことは完全に無視してるのだった。
「下級の人達からも『同僚を助けない奴と仕事なんてできない』とクレームが上がっている。これ以上は士気に関わりかねないし、何よりルアン=ラディーベの奴が必要な対応しなかったせいで死者が出る可能性もゼロじゃない」
「……」
「それにアイツの過去が過去だ」
マルファは思い出す。
ルアン=ラディーベが有名たる、もう一つの理由を。
「本来アーベントになるのは十歳以降だ。十歳以前に影胞子に感染した場合はアーベントではなく鵺になるしかない。にも関わらず奴は四歳にしてアーベントとなり、それとほぼ同時に自身が育った孤児院に居た全ての人間が死亡している」
「……」
「その時に起きた真実なんてわからない。だが、そんな異様過ぎる過去を持つアイツが、同じ仲間の救援をせず横を通り過ぎるこの現状は、ロシア本部の士気に影響しかねない」
「……」
矢継ぎ早に告げられたマルファの言葉に、アンナは黙り込む。
マルファが言ってることは真実で、否定できる要素が一つも無かったからだ。
「……そうね。ルアン君の過去の噂はこの際関係ないとしても、今の仕事に関してはちゃんと話しとかないとね。……あまりルアン君と仕事の話はしてなかったから、上手くできるかちょっと不安だけど」
「……本部長代理。私が言いたいのはそうじゃなくて、ルアン=ラディーベを追い出せと――」
「――本人抜きで何勝手なこと言ってんだよ、マルファ=イロフスカヤ」
「!?」
マルファは勢いよく振り返る。
その先には、音も立てずに部屋に入ってきたルアン=ラディーベが立っていた。
「……貴様、いつからそこに居た?」
「たった今だよ。アンナ=ヴェルデニコフと闘り合おうと来たら、お前が俺を追い出そうとしてるとこだったってだけだ」
そう言いながらルアンは小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべる。
それに対してマルファは青筋を立てて、
「ルアン=ラディーベ、貴様の行動には目が余る。それがわかっていないのか?」
「俺の知ったことじゃねぇ。お前の眼鏡に叶うつもりなんて一ミリも無ぇんだよ」
「……ここはロシア本部で、貴様のテリトリーじゃない。あまり調子に乗るな」
「ハッ、俺と勝負にもならねぇ雑魚が、粋がってんじゃねぇぞ」
ルアンとマルファは忌々しそうに互いを睨み合う。
そんな一触即発な空気の中で、
「――二人とも、そこまで」
鈴のような少女の声が、殺伐とした空気を霧散させた。
「マルファの言い分はわかった。なんとかする。それでルアン君の方だけど、私も今時間空いてるから行ける」
「そうこなくちゃな」
ルアンは笑うと背を向けて本部長執務室を後にすると、アンナもそのまま本部長執務室から出て行った。
「……はぁ」
最後に残ったマルファは疲れたかのように溜め息吐くと、アンナが居ない本部長執務室になど用はないので、廊下に出てアンナ達とは逆の方向に歩みを進めた。
3
「……チッ」
舌打ちの音が、ロシア本部の廊下を歩くアンナの耳に届く。
それはアンナの真後ろに続くルアンのものではない。
ルアンを目にした、三十歳前後の男アーベントによるものだった。
(確かあの人……)
アンナの記憶に間違いがなければ、ルアンに見捨てられたことのある下級アーベントの一人だったはず。
故に、ルアンに悪感情を抱くのは当たり前で、その男は今もルアンを思いっ切り敵意丸出しの視線で睨みつけていた。
「……」
アンナは無言で真後ろのルアンに視線を向ける。
その先で少年は、自分に向けられた敵意の視線をまるで気付いてないかのように完全に無視していた。
寒空の下、二人はロシア本部から出て訓練場に向かう。
その最中、アンナはルアンの隣に並んで、
「ねぇ、ルアン君」
「なんだ?」
「あなた、もしかして、マルファのことそこまで嫌いじゃなかったりするの?」
「……さっきのを見て、なんでそう思った?」
ルアンは嫌そうかつ訝しげな表情を浮かべる。
つい先程、マルファと交わした会話は明らかに悪意に塗れていたはずだ。
なのに、アンナは、
「だって、ルアン君、他の人のことは無視するのに、マルファのことは無視してないから」
「……あぁ、そういうことか」
今のアンナの言葉で合点がいった。
アンナはさっきの雑魚の舌打ちや視線に対して自分が一切反応しなかったのを見て、そう思ったのだろう。
しかし、それはマルファに対して好意があるからとか、そんなのではない。
ただ、
「マルファ=イロフスカヤは俺から見たら勝負にもならねぇ雑魚だ。だが、あいつは真面目に努力してる。それは、わかってる」
ルアンはマルファのことを好ましく思っていない。
正当性はどうであれ、何度もしつこく自分に突っかかってくるのだから当たり前の話だろう。
だが、それと『認めてるか認めてないか』はまた別の話だ。
「アイツの影胞子を見りゃあ、アイツが鍛えてるのはわかる。だから、今は雑魚でもいつかは面白ぇ喧嘩相手になるかもしれねぇし、どんなに嫌いでもそんな奴を無視なんかしねぇよ」
しかし、それは逆に言えば、
「さっき俺を睨んでたくせに文句すら直接言えねぇカス。あのカスは勝負どころか話にもならねぇ。……才能も無い上に努力もしてねぇ、そんな雑魚、生きてる価値なんて無いだろ」
だから、ルアンは無視した。
さっきの男が大怪我をした時も、睨みつけていた時も。
欲しがりな弱者の遠吠えなど、ルアンにとっては耳障りなノイズでしかない。
「『今も雑魚で、未来も永遠に雑魚』。そんなゴミみたいな選択肢を選んだ何も無ぇカスなんざ、生きようが死のうがどうでもいい。むしろ邪魔だからさっさと死ね。そう思ってる」
「……ふーん。なるほど」
アンナは納得したように頷く。
「そんな感じだったんだね。ルアン君らしいといえば、ルアン君らしいけど」
頷く銀髪の少女の顔に不快感など全くなく、むしろルアンの方が怪訝な顔になる。
「……なんか文句とか言わねぇのか?お前みたいなお人好しからしたらあり得ねぇ思考だろ、これ」
一ヶ月も一緒に居ればわかる。
アンナ=ヴェルデニコフはどんな弱者でも助けたいと思うタイプの人間で、自分との鍛錬もそのためだということは。
「別に、ルアン君が私と違う考え方をしてるからって、私がそれを否定できる権利なんてない。……もし、ルアン君が理不尽な暴力を振るう人だったら何か文句言ったかもしれないけど、あなたはそんな人じゃないし」
「……俺が理不尽な暴力を振るわないって、そんなこと言うのはお前ぐらいだよ」
ルアンは皮肉めいた笑みを浮かべる。
それに対し、アンナは無表情で淡々と、
「って言っても、どんなにルアン君にとっては価値の無い人でも、私にとっては大事な部下の一人。もし怪我人が出たとき、救助まではルアン君の仕事じゃないとしても、救援連絡ぐらいはして欲しいかな」
「……そんなことして、俺に何のメリットが――」
「私と闘う時間が増える。……もし、死人が出そうになったり、出たりしたら私はそっちの方を優先するから」
「……」
ルアンは眉を顰めながら、『随分自分自身を高く買ってるんだな』という台詞を頭に浮かべながらそれを口にしない。
何故なら、そのアンナの予想は、酷く正しいものだったからだ。
「……わーったよ。今度はどんな野郎でも怪我負ってたら救援連絡ぐらいはしてやる。ただ、応急処置なんてしねぇぞ、そもそもやり方知らねぇし」
「それで良い、ありがとう」
オレンジ髪の少年の答えを聞いた銀髪の少女は嬉しそうにニッコリと微笑む。
笑顔を向けられた少年は何故か居心地の悪さを覚え、視線を少女の顔からそらした。
4
「――今回は、私の勝ち」
アンナは氷で出来た剣をルアンの首元に向ける。
ルアンの直槍を凍らせて動きを一瞬止めた隙に、氷剣を首元に当てた形だ。
「……次はこうは行かねぇぞ」
ルアンは楽しそうな笑み浮かべると、アンナから距離を取り仕切り直そうとする。
その直後、
「ちょっと待って」
「あ?」
アンナは片手の掌をルアンに向けると、もう片方の手でズボンのポケットから携帯端末を取り出し耳に当てる。
どこかからか電話を着信してようだった。
「……ええ、私。……………そう。わかった、こっちで対処する、連絡ありがとう」
短く言葉を告げるとアンナは電話を切り、難しい顔をルアンの方に向けて、
「ルアン君、ちょっとお願いがあるんだけど、こっから南に二十キロほど離れた地点で『札付き』が子供を人質に立て籠もっててその対処をして欲しい。……行ける?」
――札付き。
それは、ARSSに管理されていない違法アーベントの総称だ。
……アーベントならば例え誰だろうとARSSに所属しARSSに管理されるのだが、それを良しとしなかったのが札付きだ。
ただ、異端者であるアーベントはARSSの管理下または危険な鵺退治に従事することでなんとか人権を確保している面があり、そのため札付きは人権が保証されず、むしろ異能を持つ危険な存在として鵺とほぼ同等の扱いをされている。
そのため札付きになる者は決して多くないのだが、その代わりに頭のネジが飛んでいる者が多かった。
「札付きか。特徴は……まぁ行きゃわかるか」
『なんで自分が行かなければいけないのか』、なんて無駄な問いをオレンジ髪の少年は口にしない。
何故なら、少年の方が足を脚鎧で強化できる分アンナより早く移動でき、何より、『敵を斃すこと』こそが少年の仕事だからだ。
「場所は?」
「南に二十キロ。正確な位置は携帯端末に送ってある」
「……」
ルアンは素早く携帯端末を操作して正確な場所を把握すると、
「行ってくる」
一言だけそう呟いて、目にも止まらなぬ速さで大地を駆けて行った。
5
『人から金を奪って豪遊したい』
とある札付きの痩せぎすの男――通称『刃奪者』が初めてアーベントになった時に浮かんだ思考だった。
その男はARSSのことをよく理解してなく、『超能力を手に入れた自分は警察も軍も逆らえない』程度の考えで、自分が知っている中で一番の金を持っている友人の家に強盗に入り、皆殺しにした後値打ちがあるものは全て奪った。
その犯罪行為はあまりにも杜撰で、犯人が誰かすぐに警察にバレてしまい、高級クラブで遊んでいる時に大人数で取り押されられるところだった。
しかし、『刃奪者』はアーベントの固有能力を使ってその場を切り抜けることに成功し、今は人質を取って空き家に立て籠っているところだった。
「クソ〜〜」
男は銃弾が掠った肩に手を当てる。
アーベントは回復能力を凄まじいため、もうすでに傷は塞がっているのだが、それでも怒りは湧いてくる。
「一回殺したとはいえ、何回殺しても殺したりねぇよぉ……」
男が苛立ち混じりにそう呟くと、部屋の隅に居た人質――十歳ぐらいの黒髪の少女がビクリと震える。
(なんで、私が、こんな……)
少女はつい泣きそうになる。
――今日は友達と放課後遊んでいて、両親が待つ家にバスで帰ろうとバス停に向かってる時だった。
横の路地からいきなり血走った痩せぎすの男が現れて、凄い力で首元を掴まれたのだ。
少女はすぐに叫び声を上げようとしたが、刃物で脅され、そのまま木造の空き家に連れ込まれてしまった。
少女はなんとか嗚咽が出ないよう意識的に抑えようとするが、目から涙が溢れるのは止められなかった。
そんな少女をチラリ見ると痩せぎすの男『刃奪者』は、
「はぁ……アーベントに銃弾が効くとは思わなかったなぁ、十人ぐらいまでならぶっ殺せそうだし、実際さっきそうしたけど、何十人も来たら俺死ぬじゃん。そう思わない?」
「……」
「何か返事してよ、つまんないな〜」
男は退屈そうにゆっくりと立ち上がり、木でできた床をキシキシ音を鳴らしながら泣いてる少女に近付く。
そして、
「警察だって、人質を取ってることはわかってる。突入するのは時間の問題だろうな〜」
「……」
「で、人質のお前を盾にしても、上手くいくかどうかの保証はない、というかまとめてぶち殺されるのが関の山。なら」
喋りながら小さい少女に近付く男が、横に手を向ける。
すると、虚空から急に一メートル大の剣が現れた。
『刃奪者』。
その通称の由来となった、痩せぎすの男の異能武器だ。
その剣をブンブンと振り回しながら、男は、
「今、ここで、お前を切り刻んで遊んだ方が、お得だよなぁ〜〜!!」
「……!」
壁に寄り掛かる少女の顔が強張り、表情が恐怖一色に染まる。
(誰か、たすけ――)
「まず、一回目っと」
痩せぎすの男が剣を振り下ろす――正に、その時。
二人が居る空き家の壁が、外からの凄まじい衝撃によって粉々にされた。
「!!」
『刃奪者』はアーベント化によって強化された反射神経でその場から飛び去るように少女と壁から距離を取る。
(もう警察が突入してきたか……!)
『刃奪者』は一瞬そう思考するが、その考えはすぐに捨てる。
何故なら、目の前に現れたのはオレンジ髪の少年たった一人で。
その少年は、明らかに、警察よりも犯罪者に近い雰囲気を纏っていたからだ。
(なんだ、こいつは?)
『刃奪者』の頭は混乱に襲われるが、そんな疑問など今はどうでもいい。
今重要なのは、少女の前に立っているオレンジ髪の少年が、自分にとって邪魔だということだ。
「死ね!」
痩せぎすの男は叫びながら躊躇いなく、オレンジ髪の少年に向かって剣を振り下ろす。
少年はその剣を左手に覆われた籠手で防ごうとするが、それは叶わない。
何故なら、『刃奪者』の剣には、『任意のものを透過する』というか効果が付与されていたからだ。
だから、痩せぎすの男の剣はその効果の通り、オレンジ髪の少年の左腕を透過し。
少年の胴を、斜めにかけて大きく切り裂いた。
「ヒャハハ!」
『刃奪者』は嗜虐的な笑みを浮かべる。
そして、このまま少年を切り刻――
「吹っ飛べ、雑魚」
――むよりも早く、オレンジ髪の少年の右拳によって顔面を撃ち抜かれた痩せぎすの男は、宙を舞っていた。
(……は?)
触れたものを弾く特殊な籠手に思いっきり殴られた男の顔の骨は粉々になっており、この世のものとは思えないほどの激痛でも顎が砕けて呻き声一つ出せない。
(一体、イタイ、俺が、イタイ、なんで、イタイ、殴られた?)
脳を揺らされた男は思考すらままならず、錐揉みに宙を飛ぶ。
そのまま『刃奪者』は木造の壁に激突すると、壁を破壊しながら地面に転がる。
殴られた顔面から、または木の破片によって傷つけられた全身から、男はダラダラと血を流れ出す。
(イタイ、イタイ、イタイ――………)
それが、男の最後の思考だった。
痩せぎすの男は激痛の中で意識を失い、ゴミのように地面に転がった。
こうして、『刃奪者』こと警官殺しの誘拐犯は、オレンジ髪の少年――ルアン=ラディーベによってぶちのめされたのであった。
「……つっまんねぇ。くだらねぇことに手間かけさせてんじゃねぇよ、カス」
ルアンは粉々な壁とグチャグチャになっている無意識の男に向かって、忌々しそうに呟く。
直後、オレンジ髪の少年は振り返ると、壁の隅で座り込み驚いている黒髪の小さい少女の頭の先から足の先までざっと視線を走らせる。
そして、
「……もう、行くからな」
一言だけそう言って立ち去ろうとした正にその時、
「――ルアン君、怪我してるの?」
ARSSロシア本部本部長代理――アンナ=ヴェルデニコフが驚きの表情を浮かべながら遅れて現れた。
「そこそこ強めの札付きでも、ルアン君なら無傷で勝てるぐらい相手だって思ってたんだけど……どうしたの?」
「うるせぇ。浅い傷だ、俺の回復能力なら一時間もあれば治る」
「それも、そうだね」
アンナは肩をすくめながらそう言うと、ルアンから視線を外し、少年のすぐ側で蹲っている十歳程度の黒髪の少女の全身をざっと見て傷が何も無いことを確認する。
アンナは少し屈みながら、ニッコリと笑って、
「あなたの、お名前は?」
「……レイチェル=スノーランド」
黒髪の少女は短く、己の名前だけを恐る恐る告げる。
それに対してアンナは優しく微笑んで、
「レイチェルちゃん。とりあえず、お家に帰ろっか。私があなたを家まで届けるから」
「……」
レイチェルは無言でブンブンと頭を縦に振る。
アンナはそんな少女に対してゆっくりと手を差し出す。
黒髪の少女は、アンナの手を取るとゆっくりと立ち上がった。
アンナは少女の手をギュッと握りながら、ルアンの方に見て、
「この子を、守ってくれてありがとう」
「……俺は俺の仕事をしただけだっての」
ルアンはぶっきらぼうにそう言うと、再びその場から立ち去ろうとする。
だが、
「――お兄さん。助けてくれて、どうもありがとうございました」
アンナと手を繋いでいた少女が、小さいがハッキリした声でお礼の言葉を口にした。
それに対してルアンは足を止めると、
「仕事だって言ってんだろ」
やはり不機嫌そうな顔でそう嘯いて、今度こそその場から立ち去った。