8、父の死
母の死から5年、父が終末期を迎えた。
父は母の介護のキーマンとして活躍し、80歳から92歳まで母の排泄の世話をしてくれた。母が死ぬと程なく自らがデーサービスに行くようになった。きっかけはお風呂でのアクシデントだった。お風呂に入ってなかなか出てこないので政二が見に行くと目を瞑って鼻近くまで深くつかっていた。
「大丈夫か?」と声をかけると頷くが起き上がろうとしない。
「立ち上がって!」と声掛けするが立ち上がれない感じだった。政二がバスタブの上に立って、上から抱えて上がらせようとするが、体重が70キロ近くあって脱出できない。そこで救急車を要請すると若い屈強な救急隊員が2人で来てくれた。お風呂場のバスタブに乗って、上から力強く持ち上げると何とか出てきた。タオルを数枚巻いて近くの救急病院へ。医師の所見は「湯あたりですね。特に脳に障害が出たという事はないようです。血圧が上がって動けなくなったんでしょうね。」というものだった。しかしまた同じことが起きたらズブズブと沈んでいくのではないかと考え、政二の兄弟で話し合って家での入浴は断念して、入浴はデーサービスセンターで入らせてもらうことにした。そこから父のデーサービス生活が始まる。
しかし政二が出かけるとき、
「デーサービスの迎えが来たらちゃんと言ってくださいよ。」と念を押しても、9時ごろに職場にいる政治の所に電話があり
「お父様がデーサービスに行くことを拒否されています。迎えの職員に暴力をふるいますので、ご自宅に置いてきました。よろしくお願いします。」という内容だ。同じような電話が週に1回はかかってきた。そのたびに政二は昼休みを利用してスーパーに行き、弁当を買って家に持っていった。大変だったが何とかやれる介護生活だった。
しかし、95歳を超えるころ、肝臓にがんが見つかった。高齢のため進行は遅く、寿命が来ることとがんが進行することとどちらが早いかというレベルの診断で、さほど慌てることはなかった。しかしそのあたりから体の衰弱が目に見えてわかってきた。98歳の頃、医師から在宅医療を勧められた。医療的にはすることがないので在宅医療センターから医師や看護師の訪問を受けながら、ヘルパーの力も借りて衆まちゅきを迎えたらどうかというものだった。
この時政二の心に母を入所させた日のことが浮かんだ。母はあの時、もう二度と生きて帰れない旅に出てしまったが、父には在宅医療にすれば家で最期を迎えられる。父にとってはその方が幸せなのではないか。薬で延命治療をして苦しみながら死ぬよりも、最後の時を枯れるように迎えられたら苦しまなくていいのではないか。そう考えて在宅医療を選んだ。最後の時はほんのしばらくで来た。
半年もたたないうちに体力は落ちて、食事は呑み込めなくなり誤嚥を防ぐために液体飲料になった。栄養価は高いが飲むのを嫌がった。その食事も長くは続かず、飲み込めなくなると在宅医療センターの医師は
「点滴による栄養注入に変えていきます。しかしこれもいつまでもは続きません。いずれ体力の限界が来ますから点滴をやめれば数日で最後の時がやってきます。どうしますか?」と言われた。しかし政二はすぐに点滴を辞めますとは言えず
「しばらくは点滴をお願いします。」と答えた。
それから何日たっただろう。点滴にして数回したところで兄弟で相談して点滴を終了することを医師に告げた。
最後の時はすぐ来た。父のベッドの横の部屋で寝るようにしていた政二は2日目の朝方、うとうとしていると2階から妻が降りてきて、父の様子を見に来た。
「息が荒いような気がするわ。顎で息をしているんじゃない。」と父の様子を表現した。政二も父のベッドに寄り添って顔色を窺うと口を開けて顎を動かしながら呼吸している。医師が行っていた息を引き取る直前の兆候と同じような気がした。そのまま数分見ていると、動いていた顎が突然止まった。妻は
「おとうさん、息が止まったんじゃない。どうするの?」と言って2階で寝ている子供たちを呼んだ。2階からばたばたと孫たちが降りてきてお爺さんの周りを取り囲んだが、息をしていないことを確認して手を合わせた。
政二はすぐに聞いていた夜間緊急時の連絡先の看護師の電話番号に電話すると、看護師は朝になってから医師と共に来るとのことだった。
翌朝、早朝に医師たちはやってきて死亡診断をしてくれた。そこからは慌ただしく葬儀屋やお寺、親戚筋に連絡して家の中はてんやわんやになった。騒動を聞きつけた近所の人たちも弔いに訪れ、弔問客の対応で忙しくなった。
政二はやはり泣けなかった。泣いている余裕もなかった。通夜葬儀も慌ただしく過ぎていき、火葬場で最後の別れとなったが、涙は出なかった。不思議な感覚が政二を包んだ。




