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学生生活と就職

大学生から教員としての社会人生活の初期にかけてを振り返る。政二の性格のいびつさは仕事のいろいろなところに現れる。

 政二は不本意ながら地元の福井大学に進学するために京都の下宿を引き払い、福井の実家へ帰ってきた。京都の下宿には大阪の会社に就職して会社の寮に住んでいた兄が、会社のワゴン車に乗って来てくれた。1年間住んでいたが、部屋には布団と本と自転車くらいしかなかった。すべて積み込んで高速道路で帰ってくると再び蔵の中の部屋に入った。家には祖母と姉が2人で住んでいた。久しぶりに見た祖母はだいぶ老けたように見えた。しかしその時、祖母のことをご飯の準備をしてくれる家政婦のように見ていたかもしれない。


 大学は教育学部だったので将来的には教員になることが必然的だったのだが、この頃の政二は出来たら教員ではなく他の職業に就きたいと思っていた。出来ればどこかほかの大学の大学院に行って、将来的に大学の教員になりたいとおぼろげに考えていた。これは自分は高校生の時に挫折したが、まだ何かやれると考えていたのかもしれない。自分にもっと大きな期待をしていたのだろう。ただ大学生の頃に姉が結婚して家を出て行ったので、その後は家の2階に移って、祖母と2人で暮らすことになった。高齢の身体に鞭打って政二のために毎朝食事を作り、寝込んでいる政二を起こすために1階から力の限りの声を張り上げて起こしてくれた。また夜中まで雀荘で友人と麻雀にふけり、祖母が寝静まる中を家の中に帰ってくると、祖母は目を覚まし政二に声をかけてくれた。

 ただ大学生の頃には父から工場の仕事を手伝う事を頼まれ、アルバイトとしてお金をもらっていた。織物製造業では縦糸を巻き取った大きなドラム状の物を運ぶ作業が大変な体力作業になります。100キロ以上あるものを前後の2人で持ち上げて車に乗せ、また工場の入口で車から降ろさなくてはいけないのです。父は従業員のおじさんと2人でやっていたが、そのおじさんが腰を痛めてしまい、政二がいかないとその作業ができなくなってしまった。持ち上げるリフトを備えた車を購入することで解決している工場も多いが、その頃には父は廃業するタイミングを考えていたので、新しく設備投資することを控えていた。大学へ行ってしまうと出来ないが、授業がない時や休みの日に駆り出され、1回さ表に出ると2000円ずつもらっていた。

 ちなみに政二は奨学金をもらっていた。大学入学が決まるとすぐに学生課で奨学金と授業料免除の申し込みをして、しばらくすると奨学金が2か月に一回振り込まれた。授業料も後期から卒業まで免除になった。その当時奨学金は公立学校の教育職員になると返還免除の制度があったので、返却していない。また授業料も工場での父の給与が少なく抑えられていたので、免除が決定され結局大学には入学金と1年生の前期の授業料だけを払って卒業まですんでしまった。実に安く済んだことは親孝行だった。

 父からは月額2万円のお小遣いはもらっていたが、工場でのアルバイトと家庭教師などのアルバイトで月額10万円程度で生活をしていた。

 大学時代に一番取り組んでいたのは映画鑑賞だった。金曜日と土曜日の午後は映画の時間と決めて、当時のロードショーは2本立てだったので、毎週4本、さらに時間があるときには映画館の梯子もしたので6本見た週もあった。年間50週の内60日くらい通い、150本くらい見た計算になった。手帳には見た映画のタイトルと短い感想を書いていった。

 1979年から1983年にかけてなので洋画ではスターウォーズ、ET、ゴーストバスターズ、グレムリンなどが流行した。邦画では刑事物語、男はつらいよなど多くの作品を見た。中でもメトロ劇場という名作のリバイバルを専門に上映する映画館で見た『砂の器』は強烈な印象を受けた。松本清張が1960年代に描いた小説を1970年代に映画化されたものだが、その中の『宿命』という音楽が悲しい映像と共に強く心を揺さぶった。主人公の音楽家が演奏しながら過去を回想するシーンで、ハンセン病にかかった父と幼い息子が日本海を南下しながら逃げていくシーンは涙でスクリーンがにじんで見えた。その後、何十年経ってもこの映画のこの曲を耳にするだけで条件反射のように涙ぐむようになってしまった。


 母親の葬儀で出棺にあたっても涙を流せずにいた政二は、このシーンを思い出しながら

「涙は流せるんだ。ただ家族に対する意識が他の人とは少し違うんだという事に気が付いていた。


 大学を卒業した政二は教員採用試験に合格し、越前市の武生第2小学校に赴任した。大学院に行きたいという思いはあったが踏み切れず、教授に真剣に相談しなかった。今でも心残りはある。しかしその時は

『教員は一生の仕事にはしたくない。しばらくしたら別の仕事に鞍替えしよう。』という考えを持ちながら5年生の担任になった。ただこの時も成育歴からくる感受性の薄さが影響があったようにも思う。かわいい子供たちの前に立っても、心底子供たちに心を開いて自分をさらけ出すような事ができていなかった。将来的に教員を続けて行こうという気持ちがなかったのだから仕方がないかもしれないが、素直でかわいい子供たちが自分の思い通りにならなかったら、子供たちにあたり散らかしていた。退職まじかになった時に反省したが、児童の命にかかわるようなことをいくつもやってきた。運よく大けがをしたり死んだりしなかったが、続けてこれたのは運が良かっただけだった。

 もっと相手を思いやる気持ちが正常だったら、もっと子供たちに寄り添った指導ができたのではないかと反省している。この最初に赴任した学校で担当した児童には申し訳ない気持ちを持っているが、彼らもあまりいい感情を持っていないらしく、ほとんど音沙汰がない。政二が児童生徒の気持ちに寄り添って指導が出来るようになったのは、40歳くらいになってからだった。

 

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