祖母との食卓1969
母の葬儀で自然な涙が流せない政二はその原因を探るべく、少年時代の生い立ちの歴史を思い出す。父と母が子供たちと別れて暮らしていたことが政二の生育に大きな影響を与えたのか。
政二が思い出した幼少の頃は一番古い記憶が小学校6年生の頃の食卓だった。1970年の高度成長期だった。天井から吊り下げられた薄暗い照明の居間の中央に丸いちゃぶ台が置かれ、その周りに兄の仙一と姉の裕美、祖母のクメと政二の4人が座っている。ちゃぶ台の中央には大皿にモヤシ炒めが置かれ、一人一人にお味噌汁とごはんが盛られている。モヤシ炒めはモヤシと細く切られた蒲鉾、シイタケが入っている。塩と胡椒で味が調えられていた。
政二はモヤシ炒めが嫌いではなかった。しかしその時なぜか文句を言っている。
「また、モヤシか。もっとうまいもんが食いてえよ。」と悪態をついた。うまくないと言うつもりではなかったのだがつい先日もモヤシ炒めだったのである。2日に一回は出てくるメニューだったので飽きているという意思表示だったのだろう。しかし明治生まれで65歳の祖母は
「いやんなら食うな。食べてもらわんでも構わん。」と吐き捨てるように言いながら、ごはんの茶碗を持って食べている。そこに合わせるように高校生の兄の仙一が
「そうや、一人食べんかったら米が助かる。文句言うなら食べるな。」と言って睨みつけてきた。姉は静かにしていたが、政二は立場を失い、黙ってモヤシ炒めに箸を進め、小皿に少し取って一口、口に運ぶとごはん茶碗を左手に持ってご飯を頬張った。この時代は高度成長とは言え、松山家の食卓は畑でとれたジャガイモや大根を煮込んだ煮しめかモヤシかたまに肉のかわりにソーセージを入れたカレーライスだった。夏にはソーメンモ出たが、大きなボールにソーメンが大量に入れられ、水の中に浮いていた。白い麺に中に数本だけ赤と青の麺が混じっていて、兄弟で取り合ったものだ。
1970年頃はまだ先進国の実感はなく、生活の中に戦後が色濃く残っていた。
しかしこの風景に父と母がいない事におかしいと気が付いたのは高校生になってくらいからだった。父は1965年、政二が6歳の時に少し離れた隣の村に工場をたてた。それまでは家の隣に小さな工場があり、織物製造業をこじんまりとしていたのだが、40歳になり世の中の景気が上向いてきた時期に勝負に出たのだ。大手の合成繊維製造メーカーの系列工場として、朝5時から夜10時まで稼働するために、従業員も増やして2交代制で働いた。そのため父と母は工場の中に生活スペースを確保し、日曜日以外は早朝から夜遅くまで働いて工場を稼働させた。そのため父と母が家に帰ってくるのは日曜日の午後だけだったのである。
日曜の夕飯だけは母の知子が祖母よりは少しだけ現代的な料理を作ってくれた気がした。昭和初期の食卓がようやく戦後の料理になったというのが正しいかもしれない。
一番喜んだのは姉かも知れない。日曜の夕方の台所では姉の裕美が母と一緒に楽しそうに一口かつの衣をつけていたことを政二は遠巻きに見ていた。初めて食べたメニューはそれ以外にオムライス、フルーツポンチ、茶わん蒸しを覚えている。
しかし食事のあと、夜8時から政二は青春学園物のドラマを見たかったが、父の仙吉がNHKの大河ドラマ以外は見せてくれなかった。8時45分に大河ドラマが終わるとチャンネルを変えて青春ドラマを見ると森田健作が涙を流しながら高校生に何か語っていた。まるで水戸黄門の印籠のように同じ時間帯に同じような場面が流れて来ていた。
9時になると次の日の仕事がまた朝早いので、父と母は工場に戻っていった。1週間で父や母と一緒にいたのは毎週7時間くらいだった。こんな生活が政治の場合は6歳から高校卒業して家を出るまで続いたのだ。
父母が別れて住んでいて一番不便を感じたのは集金日だった。学校で集金袋が分けられると普通の子は家で親にお金を入れてもらう。しかし政二たち兄弟は集団登校で学校に向かう途中に工場の前に差し掛かると、登校班の列を抜けて工場の中に入っていった。工場の中で母を見つけると織機のけたたましい音がする中で母の耳元に
「集金!」と叫んでお金を入れてもらうことを伝えると母は財布が置いてある部屋に行ってお金を入れてくれた。これが毎月あるのだが、幼い子供が家を出るときは集金のことを覚えていても工場の前に行くと忘れてしまう。夏休みの8月を除いて、年間11回集金があるとすると、8回くらい集金を忘れて学校に行ってしまう。毎回忘れるから教室で立場が弱くなってきて、6年生の時に昼休みに走って学校から工場まで行ったことがあった。お金を入れてもらってまた走って学校に戻り、5時間目の前に先生に集金を出した。政二は先生が
「よく走っていってきたな。」と褒めてくれると思っていた。しかし先生は
「学校を途中で抜けるなんて誰も頼んでいない。こんなお金は受け取らない。明日もう一度持ってこい。」と突き放された。その時は号泣して父と母が子供たちと離れて暮らしていることを悲しく思って、号泣したことを覚えている。
こんな小学生の時代の記憶を思い出した政二は、もしかしたら幼少期の親の愛情が足りなかったんではないかと感じた。教育評論家の中に親が忙しくて子供がかぎっ子状態やほったらかし状態の場合、子供の感性が育たなくて周りの子供たちとうまく接することができず、非行に走ったりすることがあると言っている。政二は自分の場合もこの例にあたるのではないかと感じていた。母の葬儀でも涙が出ない自分の感性が他の人と少し違っているのではないかと言う疑惑の原因をこの成育歴に求めて行った。
自分では普通のことと思っていた小学生の頃の生活が政二の生育に影響を与えたのか。母の葬儀でも泣けない男は自己分析を続ける。