爪
庭には春の名残りを残す薔薇が数輪咲いている。
マナーハウス(領事館)の裏手にある別宅、病弱だったフローラの母が療養のために使用していた小さなワンルームだけの小屋。
そのベッドにはフローラが寝ている、撃たれてから三日、高熱が続いていた、ハウスメイドのロゼが額の汗を拭いて、意識のないフローラの口に水差しから水を流し込む。
「フローラ様、がんばって!」
ガチャッ 扉が開けてハリーと偽物のフローラが入ってくる、フローラ様の服を纏った姿は見分けがつかないほどだがロゼには雰囲気の違いが遠くからでもわかる。
どことなく暗い、冷たく冴えた空気に包まれている。
正直気味が悪い。
「まだお目覚めならないか」
「ハリー様、熱が下がりません」
「やはり・・・化膿している、もう一度切開して膿を出し切ります、手伝ってください!」
「はいっ、準備します!」
胸部側の銃創が大きく酷い、服を開いて包帯を取る。
「あなたは見ないでください」
フローラから目を離さず後ろに立っていたエミーに声をかけた、慇懃さが混じる。
人と関わると良く目にする反応だ、親友や友達と呼べるような者はいない、彼らの気持ちはよく分かる、人から好かれるような人間じゃない。
それでも養父は良い人間になれるといった。
「ああ分かった、いや・・・はい、わかりましたわ」
アンヌから教わった声のトーンで答えた、ロゼがチラッと振り返る。
二人が処置をしている間、部屋の中を眺めると優しい顔の女の肖像は母、隣の真新しい男の絵が男爵だろう、やはり優しい顔だ。
皇太子到着まであと四日、フローラから少しでも話を聞いておきたかったが無理だと分かった。
ハリーの見立てでは命の危険は脱したと言うが、身代わりをいつまで続ければいいのか見当がつかない、いつまでも誤魔化せない。
部屋の窓から庭を見ると名残りのバラが一輪目に入った、剪定鋏を持って庭にでる。
少し小さいが春の残り香を部屋に運んだ。
ガラス瓶に刺して治療の終わったフローラの枕元に置く。
意外という顔でロゼが花瓶を置いたエミーの手元を見た。
「ちょっとまって、そこに掛けて」
「なんだ?ああもうっ、だめだ、男言葉が抜けん」
「手をだして」
素直に差し出すと爪を削り始めた。
「爪の形まで似ているなんて、双子でもここまで似ているものかしら」
「双子じゃない、ただの偶然よ」
「私の前では男言葉でいいよ」
「常に練習しておかないと咄嗟に男言葉が出ちまう、ここまで似ているのも縁よ、役に立つかは分からないけど努力はしてみるわ」
「ほんとに偶然かしら、親戚か何かじゃないの」?
「さあ、私は孤児だったから分からないわ」
「・・・ごめんなさい、立ち入ったことを聞いてしまって」
「いいえ、珍しくはないことよ、それに孤児院は賑やかで楽しかったわ」
「そうなんですか」
「以外かしら、もっとも私はいつも輪の外からみんなが楽しそうに遊んでいるのを見ていただけだったけどね、でもそれが好きだったわ」
「自分から輪の中には入らなかったのですか」
「苦手なの、私は感情が薄いって良く言われていた、自分でもそう思う、他人からみれば気味の悪い人間に見えると思うし実際事実だもの」
「おまけにこの容姿、男にとっては利点にはならないわ、むしろ逆、力も持久力も劣る、体重がないから剣の膂力もない、唯一こっちを女だと思って侮って隙ができるのが利点かな」
「そんな・・・」ロゼは少し後ろめたい気持ちになった。
丁寧に爪を整えて紙やすりで表面を磨く、刀を握ってついた拳タコは取りようがないがフローラの手も畑仕事や森の仕事で荒れていたから同じといえる。
「さあ、できたわ」
「ありがとう」
「ロゼ、私たちは二日ほど館を空けます、お嬢様を頼みましたよ」
「何かあったのですか?」
「魔獣です、被害者が出てしまいました」
牧羊犬が落ち着かない様子で鼻を鳴らしている。
羊たちはのんびりと草を食んでいる、少し雲行きが怪しいがいつもの午後だ。
魔獣騒ぎは一段落しているが駆除されたわけではないらしい、一人では危険だから数人でまとまって行けとの御布令だったが、そうそう足並みが揃うわけでもない。
用心のためでっかい鎌を用意してきた、もしも魔獣が出たら返り討ちにしてやるつもりでいた、腕力には自信があった。
ガサッガササッ 森から木々が擦れる音が微かに聞こえた。
ヴウゥゥゥゥゥー 犬が森に向かって低く唸る。
「なんだ、どうした!?」
草原から突き出した岩に腰かけて黒い森を見ると木々の上の方が風もないのに揺れている。
「鳥か?」
鎌に手を掛ける。
ワワンッ ヴゥゥゥッ ワンッ ガウッ ダダダッ
猛ダッシュで犬が森に向かって走り出した、何かいる。
「おい!待て、行くな!!」
犬は直ぐに森の中へ消えた、激しい吠え声は続いている。
「なんだよ、気味悪いな」
長閑ないつもの草原に一人取り残されたような心細さを感じた、やっぱり一人で来るべきじゃなかったと後悔し始めた時、ギャウンッ 犬の悲鳴が聞こえたきり森は沈黙した。
「うっ!?」
黒い森の暗がりから赤い目と二本の赤い縦線が現れるのが見えた、でかい!
全身を漆黒の毛が覆っている、ニヤリと嗤うように縦長の顔の口が開いた、白く長い犬歯が真っすぐ下に向かって伸びている。
「ひっ、く、熊!?」
男は鎌を持ったまま草原を全力で逃げた。
息を切らしながら丘を越えたところで振り返った森に黒い塊は見えなかった。
ほっと油断した時に足首を掴まれて前のめりにつんのめって転がった。
「わあっ!!」
振り向いた目が白い犬歯を捉えたのを最後に意識は暗闇に落ちた。
翌日、帰ってこない男を心配して捜索にきた村の者たちによって、その変わり果てた躯は発見された。
男爵同様に切り裂かれた腹から臓物は消え、首には鋭い傷もあった。
男が持っていたはずの大鎌も見つからなかった。
草原の羊たちだけが何事もなかったように草を食んでいた。